第19話 作法その九〜3 ダイスキだから……。

 顔を上げれば、ドアにもたれ掛かる竜胆りんどうの姿が目に入った……。


「……なんで? ……おかしい。クルヤくん、妹子ちゃんとは結婚しないって言ってた。……嘘ついてたの? ……そうなの?」

「竜胆っ。落ち着いて。勘違いだから」


 僕の言葉もまるで耳には届いていない様子で、ドアにもたれ掛かかったままの彼女は、ギリギリと右手の爪でドアを掻く。爪が剥がれ、血が流れ出す。


 こんな竜胆の姿を僕は見たことがない。


「……違う。……そんな訳ない。……ダメっ。クルヤくんが私に嘘つくはずない。嫌っ。……私が世界で一番だって言ってたのに!」

「大丈夫だから! 世界で一番なのは竜胆だから!」

「じゃあ! 早く! その子どかしてよ!」


 彼女の絶叫にイクコがビクリと肩を震わす。すぐさま唇も震え出し、目に涙が溜まっていく。


「おにぃぢゃん……。ごめんなざぃ」

「謝らなくていいから僕から下りて」


 優しく伝えるも、イクコはボロボロと涙を零すばかりで、僕の上から下りてはくれない。


 聞き分けが悪いわけじゃない。きっと怖くて体が動かないんだろう。

 それでも無理やり妹をどかしてしまえば良かったんだ、と思う……。


「もういい……」

「何も良くない! 僕の話も少しは聞いてよ!」

「もういい!」


 声を震わせ、涙を流し、そして、彼女は踵を返す。

 走り去っていく彼女を僕は追うことすら出来ず……。


「イクコ、ごめん。どいて」

「……ごめんなざぃ。私のぜぃで」


 竜胆が姿を消し、やっと妹が僕の上から下りてくれる。

 きっと蛇の呪いがけたんだろう。


「いいよ。大丈夫。竜胆なら絶対にわかってくれるから。……もうイクコはおうちに帰りなよ」

「わがっだ……。今度、竜胆ざんにも、ぢゃんど謝るがら……」

「うん。……今日は僕の誕生日なんだし、帰ったらケーキを食べよ?」


 イクコが小さく頷いた……。



 竜胆はどこに行ったのか?

 僕にはハッキリとわかる。というよりも、誰にでも、わかることなのかもしれない。


 廊下には点々と血の跡が残っていて、自惚れかもしれないけど、僕にはそれが「自分を追ってきて欲しい」という彼女の願いのように思えた。


「……え? ……行き止まり?」


 旧校舎の四階、非常口の前まで続いていた血の跡が途切れている。

 非常口から外に出たのかと思い、非常口をひらこうとするも、全くビクともしない。


「竜胆……。どこ行っちゃったんだよ……」


 ――ヒタ……ヒタ……ヒタ。


 床を踏む音が背後から近づいてくる。


「クルヤくんが…………来てくれた」


 振り向けば、そこには目を見開いたまま涙を流し続いる竜胆カナデ。


 作法その九。ヤンデレ娘のポケットが妙に膨らんでいる時は、己の位置取りに注意し、常に刃物を警戒していなければならない。

 もし僕が彼女に傷付けられてしまえば、僕よりも、何よりも、きっと彼女の心が一番傷付いてしまうから……。


 それでも僕は彼女に向かって歩き始める。彼女も僕に向かって歩き始めていた。

 胸の内ポケットに左手を入れながら……。


 ……防刃ベスト、着てくれば良かったな。


 背後は行き止まり。僕と彼女の距離はおよそ一メートル。ひ弱な僕なら女の子でも一突きで終わりに出来る距離。


「クルヤくん……。スキ……。私はクルヤくんがスキなの……。だから……」


 涙を流しながら彼女は僕を一突きにした。

 ……ほとんど痛みはない。きっと彼女の唇が僕の唇に触れているからだ。


「……竜胆。全部、誤解なんだよ。妹とは何もしてないし、キスもしてない。今のが僕の……所謂その……ファーストキスってやつだよ」

「……もんもーに?」


 たぶん竜胆は「本当に?」と聞いているんだろう。


「うん。本当に」


 彼女の血だらけの右手に手を絡める。


「おんおーに?」

「本当にだよ。竜胆は僕の言うことが信じられないの?」


 竜胆が強く頭を振る。


「じゃあ、クルヤくんは……私のこと好き?」


 何だかデジャブだ。でも、今日は漱石の話じゃない。

 だから、僕はこう答える。素直な気持ちを言葉に現す。


「好きだよ。すごく好き」


 僕の言葉に彼女の顔が赤くなっていく。そして、彼女は目を瞑った。


「私も……好き。……スキ。……ダイスキ」


 目を開いた彼女は僕にだけ見せる優しい笑みを携えていた……。


【次回が最終話になります。結末は如何に?】

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