第8話 作法その七~後編 おしっこ我慢

 マスターが竜胆りんどう消し炭ダークマターを自らの胃袋に収めてから数分後、僕と竜胆は店内で二人きりとなった。マスターは、僕に店を閉めるよう言い渡し、トイレ入ったきりで出てくる気配はない。きっと、消し炭ダークマターのせいですこぶるお腹の調子が悪いんだろう。


「マスターさん、どうしたのかなぁ? 変なものでも食べちゃったとか?」


「そうだね。事実として、さっきダークマター変なものを食べたからね。そりゃ、お腹も壊すよ」


「ダークマター?? よくわからないけど、マスターさんは、私のクッキー無理して食べてくれたのかなぁ? お腹の調子が悪いんだったら、後でにすれば良かったよね……」


 そうなれば、後でお腹を壊すだけだ。どの道、マスターがお腹を壊す世界線に変更はない。


「あのさ、竜胆。誰かに何かをプレゼントするのは良いことかもしれないけど、やめておいた方が良いと僕は思うよ? 特に自分で作った料理ね」


 決して嫉妬心から出た言葉じゃない。ただ僕はこれ以上犠牲者を増やしたくないだけだ。


「それって、つまり……。……うん、わかった。もう誰にもあげない。クルヤくんにしかあげない」


 僕の発言をどう解釈したのか知らないけれど、そう答えた彼女は、とろんとした瞳を僕に向けていた。


「まぁ、わかってくれて嬉しいよ」


 彼女の発言によれば、何やら僕だけは犠牲者であり続けるみたいだけれど、別に構いはしない。僕の胃袋は頑丈だから。


「うん。それじゃ、そろそろ――」


 竜胆がコーヒーカップを大きく傾け、中身を飲み干す。外を見れば、もう真っ暗だった。

 そろそろお客さんが増えてくる時間帯なのに、こんなことになってしまって非常に残念だけれど、彼女が帰ったら、念のためマスターの娘さんに一報入れて僕も帰ろう。


「――お替りもらおうかな? マスターさんも心配だし、もう少しここに居たいし……」


 なるほど、そう来たか。断りたいけれど、メニュー表に「一杯までコーヒーお替り無料」と書いてあるし、無下に断るわけにもいかない。


「マスターは籠城ろうじょう中だし、僕が淹れることになるけどいいの?」


「もちろんだよ? 私、クルヤくんのが……欲しいの」


 変な意味に聞こえるから省略して言わないで欲しい。正しくは、クルヤくんの淹れたコーヒーが欲しい、だ。


「仕方ないなぁ。じゃあ、少し待ってて。マスターに許可取ってくるから」


 むしろ許可が下りない方が僕としては都合が良かったのだけれど、マスターはうめき声を上げながらもトイレの中から「好きにしていいよ。美味しいコーヒーを淹れてあげなさい」と快諾かいだくしてくれた。懐が深いとはマスターのことを言うに違いない。好きでもない子からあんなものをプレゼントされたら、僕であれば激怒しているだろうに……。



 僕がコーヒーを淹れて戻ると、彼女は少しだけ顔を強張らせていた。理由はわからない。


「言っておくけど、味の保証はしないからね?」


「え? ああ、うん。大丈夫だよ。これが、浅見くんの……。ゆっくりと大事に飲むね?」


「いや、さっさと飲んでくれた方が僕としては有難いかな」


「ダ~メ。そんなの勿体もったいないから」


 彼女がゆっくりとカップを傾け、そして、目を細める。その姿は何だか普段と違って大人びていて、僕はほんの少しだけドキリとした。まぁ、大体いつもバッキバキに目を見開いているから、普段と違って見えるのは当たり前なんだけど。


「美味しい。世界一美味しいよ、浅見くん」


 世界一は流石に褒め過ぎだろう。僕はマスターに教えてもらったように淹れただけた。


「単に豆が良いだけだよ。あとミルもね」


「ふふっ。謙遜けんそんしちゃって。あっ。そう言えば、このお店って御手洗い一つしかないの?」


「ん? ないよ。男女共用のが一つだけだよ。それがどうかしたの?」


「……なんでもない。気にしないで」


 彼女はそう言ったものの、その後、立ったり座ったり、トイレをノックしてみたりと落ち着かない様子で、最終的にトイレのドアノブをカチャカチャといじくくりだした。小刻みに体が震えているところを見るに、たぶん、お小水を我慢しているんだろう。


「大丈夫? 顔色がだいぶ悪いよ?」


「はぁはぁ……。クルヤくん……。私の人生、もうおしまいなのかもしれない……」


「大丈夫だよ、竜胆。御手洗いに行けなかったくらいで人生は終わらないから」


 僕の励ましにも彼女は首を横に振る。


「うんうん……。もう終わり……。終わりなの……」


 すでに我慢の限界が来ているようで、彼女は唇を噛み、眉を八の字にしている。もしかしたら、今、神様が、ちょっぴり調子に乗っていた竜胆をらしめているのかもしれない。

 ……だったら、僕は神様に逆らう。僕が彼女を助けてみせる。


「良ければ、これ使って」


 僕は彼女にそっとバケツを差し出した。


「そ、それは……絶対にムリっ」


 この後、ギリギリのところでマスターがトイレから出てきて、彼女は事なきを得た。トイレから帰ってきた彼女はとてもスッキリとした表情をしていて、いつもと違った彼女の姿に僕は少し頬を緩めていた。



 作法その七、改正。ヤンデレ娘にはバイト先を明かしてはならない。毎度、コーヒーだけで随分と粘られることになるから。ただし、それが功を奏して、彼女の色んな表情を見られることもある。

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