第7話「家」
「またねー」
恵に手を振って、冬子は自分の家の方へと歩き出す。恵の家はここから自転車で十分くらい、冬子の家は徒歩で二十分くらいだ。冬子は自転車を持っていないから、ここから家まで歩く。自転車で行けばもっと早いのだろうな、とは思うのだけれど、別に歩きでも困りはしない。部活もやっていないから、運動にも丁度いい。
頬に冷たい風を感じながら路地を曲がり、畑の多く広がる側へと方向転換する。都会から少し外れたような場所にあるこの街は、山の方へ近づけば未だ畑も多くある。枯れて半分ほど葉の落ちた山は、どこか寂しく見える。
冬子の家は、そんな山の裾、神社へと続く参道沿いにある小さな下宿だ。下宿、と言っても本当に下宿なわけではなくて、昔下宿だった建物を借りて住んでいる、という意味で、大家の石川さんの厚意で家賃も払っていない。だから、本当は居候というのが近いのだろうけれど、建物が建物なだけに、冬子はあの建物を下宿と呼んでいる。けれど、あの建物が本当に下宿だったのは、もう何十年と前の話だ。
押し込んで開ける古いタイプの鍵を慣れた手つきで回すと、ガラガラと音の鳴る引き戸を開け、中に入る。木材の匂いはいかにも昭和って感じがして、結構好きだ。靴を脱ぎ、廊下の一番最初の左側にある部屋に冬子は入る。そこが冬子の部屋で、この下宿の中で唯一人が住んでいる部屋だ。
入口の近くにある水道で手を洗い、次に冬子がいつもすることは、制服を脱ぐことだ。中古で買った制服とは言え、高いものであることに変わりはない。冠婚葬祭といつでも使えるこの一張羅を汚すわけにはいかない。だから、家では無印良品で買ってきた千円行かないくらいのTシャツ一枚と、半ズボンで過ごすことにしている。
ハンガーに皺にならないよう丁寧に服を掛け、冬子はTシャツに着替える。それから、長方形の小さなちゃぶ台の前にある座布団に座り、窓からちょっと庭を眺めてみる。物干しざおには、冬子のTシャツと下着肌着の類、それから大家である石川の洗濯物が色々と干されていた。
「取り込まなくちゃ」
窓を開け、ぶるりと身体を震わせてから冬子は外に出た。窓のところには百円ショップで石川が買ってきたサンダルがあるから、それを履く。冬の冷たい風が足に当たって、痛いような気がした。
自分の洗濯物は腕にかけて、すぐに部屋の中に入れる。畳敷きの床に置いてしまうとイグサのカスが付いてしまうから、ちゃぶ台の上に乗せる。それから、もう一度外に出て、今度は下宿の共用洗濯場――だった場所から籠を持ってきて、それに残りの洗濯物を入れて少し歩く。下宿の裏には大家の石川さんの、一人で住んでいるというのに下宿よりも大きな家がある。かなり古い建物で、長い縁側には一つだけ座布団が置かれていた。
玄関ではなくて、縁側から上がり、冬子はそのまま居間に入る。障子一枚隔てたそこでは、石川さんが座椅子に座ってテレビを見ていた。石油ストーブがたかれていて、この部屋だけは幾分あたたかい。
「あ、冬子ちゃん、帰ってたの? おかえり。洗濯物はそっちへ置いておいてくれればいいわよ」
「ただいま、そこ、置いておくよ」
居間から、今度は襖を開けたところにある寝室に籠を置き、冬子はまた縁側から外に出る。いい天気だから、散歩をしてもいいかもしれない。いやいや、そんなことよりも、下宿の方の掃除をしないといけない。それに、夕飯の準備もそろそろやらないと。それに、国語の課題もある。
とりあえず、冬子は自分の部屋に戻って洗濯物を小さな箪笥に仕舞い、それから少し早いけれど、布団を出した。少しだけ暖まってから、冬子は廊下に出る。これだけ静なのに、昔はいろんな人がここに住んでいたんだなあ、と思うとどこか感慨深い。みしみしと音のする床をしっかりと踏み、自室のはす向かいにある共用の台所に入る。
冷蔵庫を開けると、一袋三十円もしないくらいのもやしの袋が五袋と、しょうゆと焼き肉のたれ、あとは麺つゆが置いてある。それだけしか入っていないから、小さい冷蔵庫でも異様に広く感じる。というよりも、冷蔵庫がスカスカなのだ。何も、入っていない。
「もやしは、明日のお昼ご飯かな」
今日の夕食は、と口に出しながら、冬子はすぐ隣の戸棚を開ける。蕎麦とか、うどんのような麺類が多い。他は、パン粉とか小麦粉とか、そういうちょっとしたもの。
「うどんだ」
元々小食でよかったな、と冬子は一玉うどんを取り出しながら思う。大食いだったら、この生活はとてもじゃないけれど出来そうもない。
鍋に水を張り、ガスコンロで火にかけお湯を沸かす。その間に、水道水をコップ一杯分飲んだ。水分補給は大事だと言うから、忘れないようにしている。夏場は、塩も舐める。水筒に入れるのは、決まって塩水だ。
折り畳みの椅子に座ってお湯が沸くのを待ちながら、やるべきことを並べていく。別に、掃除は今日でなくてもいい。今日やらなければ明日もやらないけれど、明日である必要もない。課題は〆切があるから、必ずそれまでにはやらないといけない。いずれにしても、もうすぐ冬休みだから、それほど差し迫った課題もあるわけではない。
「あんまりすることない、のかな?」
台所の入口の柱に掛かっている鏡を見て、ふと思う。
「あ、前髪、切りたいな」
そろそろ少し伸びてきて、目にかかるようになってきた。これもまだ大丈夫だけれど、近いうちにやりたい。
ゆらゆらと身体を左右にゆらして、やっぱりお湯が沸くのを待つ。待っている時間は、考え事をするのにちょうどいい。
ぷらぷらと足を揺らし、天井のLEDを見上げる。綺麗に明るく光る電球は、ちょっとアンバランスで面白い。そろそろ日も暮れる頃で、窓には影が差している。
「よし」
お湯の沸いた鍋に、小袋を開けてうどんを入れる。菜箸で軽くほぐしながら、明日のことを考える。
――どんなことがあるかなぁ。
楽しいことならいいな、と思う。
冬子は長い、少し癖のある髪を左右に揺らしながら、うどんを茹でた。
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