第4話「眼鏡」
ふと顔を見上げると、ちょっとだけ視界が曇ったような感覚があることに気づく。ぼーっとしていたからか気づいていなかったけれど、いつの間にか眼鏡に手垢が付いてしまっていたらしい。
冬子は眼鏡を外すと、机に肘をついて、クロスでレンズを拭いた。折角の機会だからと、手垢を拭うだけじゃなくて、全体的にちゃんと拭く。レンズだけは新しいから、クロスで拭けばかなり綺麗になる。逆にフレームやツルの部分は目に見えて古い。近くで見ないと分からない程度ではあるが、よく見ればそれは昭和のころによく見たデザインで、実際フレームはその頃の物だ。それでも、まだまだ全然使えそうだなぁ、と金属製のフレームも軽く磨きながら冬子は思った。ただ、変な力を加えるとすぐに曲がってしまいそうなのが偶に不安だけれど。
「眼鏡外してるの珍しいねぇ」
ぼやけて、少し歪んだ視界の中心に居るのは、恐らく恵だろう。知らないうちに視力もだいぶ悪くなってきてしまっていて、この感じだと、そろそろレンズを変えないといけないかもしれないかな、なんて思う。それなら、暫くは節約しないといけない。考えてみれば、眼鏡をかけていても黒板の文字が読めないことも確かにあるな、と授業中の光景が思い浮かんだ。
「オシャレだよね、その眼鏡」
恵は冬子の手許を覗き込んでいるらしい。
「なんか、レトロって感じする。大家さんに貰ったんだっけ?」
「そう」
恵に同意しながら、冬子はスチャっと眼鏡をかけた。中学校に上がるときにはもう掛けていたはずだから、掛けていた方が安心感がある。
「恵は、コンタクト?」
「そうそう、便利だよ」
恵は左手で左の瞼をぐいっと広げた。コンタクトは、入っているのかいないのか、よくわからない。
「でもなー、落とすと死ぬんだよなー」
「死ぬことは……ないと思うけど」
――生きていけるかは、まあ別として。
「とろはコンタクトにしないの?」
うーん、と冬子は斜め上を見上げる。目線の先には、フレームのちょっとメッキが剥がれかけた部分がある。たっぷり三十秒ほど眺めてから、冬子は再び恵の方に視線を戻す。
「しない気がする」
「いいけどね、コンタクト。視界全部クリアだし。ほら、眼鏡ってレンズの外側は見えないじゃん?」
ぴろぴろと指を動かす動作は、多分レンズの外側を表しているのだろう。傍から見たら面白いだろうなぁ、と思ったから、冬子は何も言わずに変なジェスチャーを続ける恵をぼーっと見つめていた。
「何見てんだよ!」
「………………ウーパールーパー?」
冬子の頭に浮かんでいたのは、ピンク色の両生類だった。
「ちくしょう」
何が悔しいのかは全然わからないけれど、恵は悔しそうにして、それから冬子の机の上に倒れ込んだ。全体的に短くまとまった髪の中で、唯一ちょっとだけ長い横の髪が冬子が開きっぱなしにしていたノートに広がる。
「次の授業、なんだっけ?」
「冷静なのかマイペースなのか……。次は数学」
「あー」
机の中から教科書を取り出して、恵の頭の上に置く。剝れかけた背表紙から紙の繊維が恵の頭に落ちて、くすりと冬子は笑った。
いい具合にバランスを取って乗っていたから、今度は問題集と、その上にさらにノートも載せてみる。全体的にボロっとした印象の中で、一番上に乗ったノートだけは綺麗なまま保たれていた。
「うけるね」
「何がじゃ」
恵は頭の上に乗った諸々を手で押さえて起き上がると、丁寧に整えて机の上に置いた。
「あー、もうすぐ二学期も終わるのに、数学の課題は溜まっていく一方だ」
ぱらぱらと冬子の問題集を捲りながら、恵が呟く。確かに、〆切が来学期、学年末テスト前の課題が授業ごとに増えていっている。授業が進めば、課題も増える。
「冬子やってる?」
「まあ、一応」
冬子は授業用のノートとは別の、ビニール紐で縛ってあるルーズリーフの束を取り出して恵に見せた。
「うーん、丁寧」
ぺらぺらと紙束を捲っていた恵は、暫くしてそれを冬子の手の上に戻した。
「スマホが近くにあるとず―――――――――っとスマホ見ちゃうから」
「やっぱり、そういうものなの?」
冬子が尋ねると、恵はちょっと考える素振りをした。
「まあ、本当にやらなきゃいけないときは流石にやるけどさ」
普段はねぇ、なんて言って、恵はポケットからスマホを取り出した。本当は、昼休みとか放課後とか以外はロッカーの中に仕舞っていないといけないはずだ。
「めっちゃ動画見ちゃう。もう、無限に。これとか」
恵が冬子に向けた画面には、若い男女複数人が画面の中で色々とがやがやしている映像が流れていた。時折映る字幕から読み取る限りでは、どうやら眼鏡の話をしているらしい。なんとも、タイムリ-な話題だった。なんでも、真ん中に座っている人が掛けているのは伊達メガネらしい。
「恵、コンタクトしかしないの?」
「いや、寝る前とかは眼鏡かけたりするよ」
「へえ。どういうの?」
恵は冬子の方を向けていたスマホを自分の方へ向けると、ぱっぱと指を走らせた。それから再び冬子の方へ向けられたとき、画面に映っていたのはピースをする、眼鏡をかけた恵だ。夜遅い時間らしく、カメラのフラッシュ以外の灯りはない。よく見ると、着ているものも寝間着のようだった。
「これ」
恵の掛けている眼鏡は、冬子のものほど真ん丸ではない、所謂ボストンとか、ウェリントンとか、そういう形の物だ。そう言えば、と以前眼鏡屋のおじちゃんが眼鏡の種類を説明してくれたことを思いだす。
「なんか恥ずかしいな」
恵はそう言うと、ぱっとスマホをポケットの中に戻した。
「その形の眼鏡、多いよね」
ぱっと周りを見ると、クラスで眼鏡を掛けている人の半分くらいはその形な印象があった。
「流行ってるんじゃない? 知らんけど」
「へー」
眼鏡にも流行りがあるのか、と感心しながら、冬子はもう一度眼鏡を外した。下を向いているから、さっきまで眼鏡のつるにひっかかっていた髪が垂れて視界を狭める。
真ん丸の眼鏡。それも、新しく作ったものではなくて、人からもらったフレームだ。眼鏡屋さん曰く、古いがかなりいいものらしい。当時で言えば、高級品だとか。それでは申し訳ないと言ったけれど、これをくれた大家さんは頑なに冬子にこれを使えを推してきて、結局使わせてもらっている。もう長いことこの眼鏡で、あんまり形について考えたことはなかったけれど。
「そういえばラウンドの眼鏡ってあんまり見ないね」
さっきも、そう言えばレトロという話題になった。
「昭和レトロが流行ったらもしかしたらみんな掛けだすかも。そしたら冬子は時代を先取りしたことになるね」
恵はそう言って、冬子の手から眼鏡をすっととると、それを掛けて冬子にピースサインを向けた。
「…………よく見えない」
「度、結構強めだねこれ」
恵はまたスマホをポケットから取り出して斜め上の位置に持つと、パシャリと音を出して写真を撮った。
「自撮りというやつだ」
「そうだよ。ほら、こんな感じ」
返ってきた眼鏡を掛け、スマホの画面を覗き込む。やっぱりピースサインをして、さっき見た写真と同じようなポーズをとる、恵の写真が映し出されている。
「あー、印象、ちょっと変わるね」
どこか知的に見えなくも、ない。
「おい」
ぱっと顔を上げると、数学の先生が腰に手を当てて立っている。
「それは、織笠のだな?」
「げ」
「げ、じゃない」
「あはは」
「あははでもない」
「えへへ」
「えへへでもない」
ちょっと気まずい空気が流れて、恵はぱっと立ち上がった。
「仕舞ってきまーす」
「授業始まるから、早く行ってこい! ……ったく」
はあ、と先生は溜息を吐いて、それから冬子の方を見る。
「あれはスマホを持つ人間のダメな例な」
それだけ言って、戻っていった。
「…………ダメな例」
ちょっと面白くて、くつくつと冬子は笑った。
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