第3話「つけ麺」

 チャイムが鳴って授業が終わると、そそくさと片付けた恵が冬子のもとへやってくる。手には、少し大きなお弁当の包みがある。冬子も、鞄の中に手を入れてがさがさと探ると、あまり大きくはないお弁当箱と、それから水筒を取り出した。

 冬子が机の上にお弁当を広げている間に、恵はいつの間にか前の机の向きを変えて、冬子と向き合うように座っていた。だいたい、いつものことだ。

「聞いて、昨日超珍しく唐揚げが残ったの。だから今日唐揚げなんだ~」

 恵はそう嬉しそうに笑って、お弁当箱を開いた。冬子の持っている、A5サイズくらいの大きさのお弁当箱を二段にしたようなもので、下半分には白米、中心には崩したはちみつ漬けの梅干し、もう一方にはサラダと唐揚げがぎゅうぎゅうに詰められていた。

 それを見た冬子のお腹がぐう、となる。

「お腹空いたねぇ」

「うん」

「とろ、今日は何持ってきたの?」

 恵に覗き込まれながら、冬子は自分のお弁当箱を開く。中に入っているのは、ただの麺だ。昨日帰ったときに、大家さんに貰った中華麺。麺が二袋と、スープ、それからスープを割るときの出汁にするための粉が入ったもの。買ったはいいけど冷蔵庫に入らなかったから、と貰ったのだ。冬子の家の冷蔵庫はスカスカだったから、いい具合にスペースを埋める材料になった。

「…………麺」

「つけ汁もあるよ」

 水筒の方に入っているのは、入っていたスープをお湯で割ったもの。水筒も落としたりしてなかなかベコベコと凹んでいるけれど、保温機能はちゃんと残っている。だから、つけ汁はまだ温かい。

「弁当でつけ麺って新し」

 ふんわりと、教室につけ汁の匂いが漂う。中には、ちらちらと冬子の方を見ているクラスメチオも居た。

「他になにもなかったから。……それに、私もいつもよりは豪華」

 へへ、と冬子は笑って、時間が経って固まった麺をほぐし始めた。

「うーん……まあ、もやし炒めよりは確かに豪華かな?」

「お水入れてくるね」

 恵に告げ、冬子は麺を両手で大事そうに持って立ち上がる。そのまま、いつもののんびりとした調子で廊下へと向かう冬子には――

「水道……トイレの?」

 ――という恵の呟きは聞こえなかった。


 廊下を暫く歩いてから、やっと冬子もトイレくらいしか水道がないということに思い至る。勿論、水道が一つもないわけではない。けれど、教室からすぐ近くには、水道はトイレのものしかない。

 どうしようかなぁ、と思いつつも、がやがやと騒がしい廊下を縫って、水道を探す。

「とろ、なにしてんの?」

 後ろからの声に、振り向く。

「まーくん」

 天宮あまみや雅紀まさきと話すのは、久々だった。雅紀が住んでいるのは冬子の住むアパートのすぐ隣、神社を挟んだ反対側にある一軒家で、それこそ帰り道は全く一緒なのだけれど、如何せん時間が合わない。

 冬子が雅紀のことを「まーくん」と呼ぶのは、幼い頃の癖みたいなものだ。けれど、久々にちゃんと見る雅紀は、前とはちょっと印象が違う。最後に遊んだのっていつだっけ、なんて考えて、結論が出ないまま、雅紀が次の言葉を発した。

「それ、なに?」

 雅紀の指の先を追うと、冬子の両手に収まった麺がある。

「麺だよ」

「そりゃわかるけど」

「じゃあ、つけ麺の、麺のほう。袋の、中華麺」

「いやそういうことじゃなくって……なんで麺持ってるのっていう……」

 ぽりぽりと、雅紀は頬を掻いていた。

「おひるごはん。まーくん、水道しらない?」

 冬子は、雅紀の目を見て行った後、麺に視線を落とした。

「鞄に入れてたら固まっちゃった」

「そこ、とろの担任居るんじゃない? 準備室って水道あったはずだけど」

 また雅紀の指を追うと、今度は扉がある。目を凝らしたら、ドアのすぐ上に取り付けられたプレートには「社会科準備室」と書かれていた。すぐ隣には、社会科室がある。社会科室は、社会の授業でよく使う。

「借りよう」

 とっとっとっ、という音が聞こえそうな小走りで、冬子は社会科準備室の扉の前に立つと、ゆったりとしたテンポで三回、戸を中指の関節で叩いた。

「しつれいします。一年E組の望月冬子です。水、ください」

 お辞儀して顔を上げると、担任がとてつもない呆れ顔を作っていた。

「はあ?」

「麺、固まっちゃって」

 困惑げな表情を浮かべたまま、担任はああ、と曖昧な返事をして、冬子の手からお弁当箱を受け取った。そのまま水道のところまで運ばれると、水を入れて軽く揺らされほぐされ、水を捨てられた状態で冬子の手に戻ってくる。

「それで駄目だったら、今お湯沸かしてるからもう一回持ってこい」

「はい。失礼しました」

 もう一度お辞儀をして、部屋から出る。振り返ると雅紀が立っていて、冬子は少しだけびくっと身体を揺らした。

「ほぐれた?」

「……たぶん?」

 気づけば教室を出てから十分は経ってしまっている。そういえば水筒の蓋を閉めていないから、もしかしたらつけ汁が冷めてしまっているかも。

「ていうか、なんでつけ麺?」

 雅紀は、腰に手をあてて、じっと冬子の持つ麺を見ていた。

「大家さんに貰ったから。いつもは、もっとちゃんとしたもの食べてる」

 ――もやし炒めとか。

 もやし炒めの詰まった弁当箱がまともかと言われればまともではないのだが、とりあえず冬子はまともだと思っている。

 だから、今日はなんでもない日だけれど、特別な日だ。

「いつもよりも豪華」

 えへへ、と嬉しそうに笑い、冬子は雅紀に手を振る。

「またね」

「あ、ああ」

 曖昧な表情を浮かべた雅紀を不思議そうに見つつ、冬子は教室へと急いだ。


「ただいま」

 冬子が恵に声をかけると、恵は食べかけていた大きな唐揚げをいったん弁当箱に置いた。

「おかえり。水道あった?」

「先生にほぐしてもらった」

「なんじゃそりゃ」

 変な顔をする恵に、冬子はまた嬉しそうな表情を浮かべて、お弁当箱の中を見せる。水にさらして少しだけほぐれた麺は、やっぱりかざりっけ無く詰め込まれている。

「いただきます」

 つけ汁にたっぷり麺を浸して、ちゅるちゅると啜る。ちょっとだけ汁が飛んで、真ん丸の眼鏡に付いた。

 少し食べたところで、はたと冬子は思いいたる。

「煮干し」

 そう呟いて、冬子は鞄の中からジップロックを取り出した。その中から煮干しを数匹つまんで、つけ汁の中へ落とす。

「追い煮干し」

「それはアリかも」

「でしょう」

 自慢げに、冬子はさっきよりも少し音を立てて麺を啜った。やっぱりちょっとだけ飛んで、今度は頬に汁が付いた。

「あー、私もラーメン食いたくなってきたな。今度食べに行かない?」

「ラーメン」

 え、と一旦思考が止まる。

「それは、外食ってこと?」

 そういえば、と冬子は自分の記憶を探る。

 最後に外食したのは、確かに中学校を卒業した日だった気がする。雅紀の両親に連れられて、一緒に焼き肉を食べに行ったのだ。あのあと暫くは、お腹が空いて仕方が無かった。

「ラーメンったらやっぱラーメン屋じゃない?」

 ずるずると、落語のそれのように、恵はラーメンを食べるジェスチャーをする。その左手には、しっかりとレンゲが握られているらしい。

「そうなの?」

「そりゃそうよ。千円あれば大体どこでも食べれる」

「千円…………」

 うーん、と冬子は、たっぷりつけ麺五口分考えて、それからうん、と頷いた。

「行ってみたい、ラーメン」

「え、じゃあいつ行く? 私は――」


 冬子がちゅるちゅると麺を啜る音に被さるように、授業開始のチャイムが鳴る。

「まだ食ってんのかお前」

 担任が、黒板に地図を書くのを止めて振り返る。しばらくもぐもぐして、嚥下、それから冬子はゆったり頷いた。

「……………………早く食っちまえよ」

「うん」

 ちゅるちゅると、麺を啜る。

「つけ麺食いに行きてぇなぁ」

 担任の独り言は、教室の中で共鳴して、けれど冬子はそれに気づくことも無くちゅるちゅるとまた麺を啜った。食べ終わるまで、あと三口くらいだ。

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