第2話「体育着」
「体育着、ちゃんと持ってきた?」
ぼーっと、消えていく黒板の文字を眺めていた冬子に、恵が話しかける。教室がいつもよりもがやがやとしているのは、次の授業が体育だからだろう。
「今日は持ってきた。ほら」
冬子は机の脇に掛かっていた、余った布を縫い合わせた袋を恵に見せる。それから、袋の口を開いて、でも、と付け加える。
「夜洗って外に置いてたら凍った」
まだ完全に溶け切っていない、シャリっとした感触の半ズボンを取り出すと、冬子はへへ、と苦笑いを浮かべる。勿論、着れないわけではないのだけれど、冬に外でやる体育の授業で、凍ったズボンなど穿いたらまともに運動できるわけがない。
恵は珍しく何も言わなかった。と言うより、言葉を失っていた。
「夏ならよかったのにね」
「そういう問題じゃないでしょうが」
パッと、恵が冬子の手からズボンを取っていく。
「うわ……いい感じにシャーベットでちょっとウザい」
恵がちょっと折る度に、シャリシャリと表面に張り付いた薄い氷が剥がれて落ちるのが面白くて、冬子は笑う。
「いいよ、私の半ズボン貸すから……」
はあ、と溜息を吐きながら、恵は自分の体育着を入れた袋を恵に渡した。
「いいのに」
「よくないわ」
そんなんで死んだらどうすんのと、恵は極まった呆れ顔を作る。
「死なないよ」
寒さには慣れてる、と言って冬子は立ち上がり、ズボンを袋の中へ入れた。分厚いカーディガンを着た姿は、どう見ても寒さに慣れている人のそれではない。
ゆっくりと、更衣室へ向かって歩き出す。時計を見るともう休み時間も半分くらいまで来ていて、もしかしたら間に合わないかもなあ、なんてのんびり思った。
「大体、なんでそんなことになるわけ?」
「昨日の体育で汚れたから、洗った。干したら、凍った」
「そりゃ冬だからね……」
とうとう恵は頭を抱えてしまった。冬子も、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「他のジャージは大丈夫なの?」
「ジャージは――要らないかなって。シャツは二枚あるからだいじょうぶ」
廊下に出ると、一気に冷え込む。どこかの窓が開いているのか、風が流れていた。
「絶対こんな寒さでそのジャージ来たら死ぬって……」
「そんなことない。と、おもう」
あんまり恵が言うものだから、冬子も少し自信がなくなってきた。尤も、持っていい自信ではない。
はあ、とまた恵が溜息を吐いたとき、前方からタッタッタッと走る音が聞こえてきた。顔を向けると、クラスメイトが走っているらしい。結構な疾走だ。はやいなぁ、となんとなく思った。
「あ! メグ!」
向かいから走ってきたクラスメイトは二人の前で止まると、恵に声を掛けた。恵と同じようなショートヘアーだから、同じバスケ部なのだろうか。或いは、バレーボール部とかだろうか。いやいや、意外と文化部なのかもしれない。
「ズボン二枚持ってない?」
クラスメイトは、冬子とは反対側の恵の横に立って二人と同じ方向へ歩き出すと、両手を合わせてそう言った。
――おんなじことしたのかな?
そんなわけないとは思うことなく、冬子はその子の顔を見た。運動神経がいい人の顔だ。
「あー、持ってるけど……」
「けど?」
「冬子に」
「いいよ」
恵の耳元で、クラスメイトには聞こえないように言う。そういえばあの子、名前は何と言ったろうか。
「えーっとだな」
「なんだよー」
ちらちらと、恵が冬子の方に目線を遣ってくる。冬子は、さっと目をそらして前を見た。丸い眼鏡の視界には、色々な人が見える。例えば、ヘッドロックを極める男子二人組とか。ブレザーのボタンが硬くて痛そうだなと、冬子は見当違いなことを考えた。
「めぐ~~~~~~~一生のお願いだから~~~~~~~~!」
「わかったわかった、ちょっと待って」
ちらりと見ると、恵はやりづらそうな顔で、クラスメイトにジャージを渡していた。
――一生のお願い?
一生に一度じゃなくて、とか関係ないことを考えながら、体育のこともちょっと考える。冬の体育と言えばやっぱり持久走で、待っている時間も長い。その間は、一応縄跳びをすることになっている。走っている間は、体温が上がるからきっと大丈夫だろう。待っている間は、縄跳びをずっと飛んでいたら暖まるだろうか。
――溶けたら、やだなぁ。
下着まで濡れてしまう。それはなんだか、厭な気がする。
冬子はもう一度袋の中からズボンを取り出して、バサバサとやってみる。
「つめたい」
「そりゃそうでしょ」
恵がまた呆れ顔を作って、クラスメイトは不思議そうな顔をしていた。さっき遊んだから、もう表面に氷は付いていなくて、見た目は普通に乾いた体育着に見えるからだろう。
やっぱり、夏だったらいいのにな、と冬子は思った。
「あ、まって時間やばい」
クラスメイトは急にそう言うと、ぱーっと更衣室の方へ走っていった。
「私たちも急がないとね」
「うん」
少しだけ足早に、冬子は廊下を進んだ。
授業のギリギリとあって、更衣室にはさっきのクラスメイトと他に二、三人しかいない。
恵は入った途端にワイシャツに手を掛けてボタンを外しはじめ、ロッカーに到着するころにはすっかり上半身は下着だけになっていた。寒そうだなぁ、なんて冬子は思いながら、自分もカーディガンのボタンに手を掛ける。
冬子がワイシャツを脱ぎ終わる頃には、既に恵は体育着を着終わって、ジャージに手を掛けるところだった。
「先行ってるよ!」
恵はそう言うと、ぱーっと更衣室から出て昇降口の方へ走っていく。それから冬子がスカートから冷たいズボンに穿き替えたくらいのところでチャイムが鳴った。
――やっぱり冷たいなぁ。
少しだけ絞ってみたけれど、冬子の力では水滴も出ず、結局そのまま穿いた。下手に絞ろうとしたせいで、変な皺が付いてちょっとみっともない。
取り敢えず昇降口の方へ小走りで向かうと、やっぱり下半身がとてもひんやりとして、とてもじゃないけれどこのまま走るのは大変そうだった。
「でもこれしかないし」
仕方ないよなぁ、なんてのんびりと思う。別に、もっと長い距離を走れば心地いいくらいになるだろうと。どうせゴールまでは時間がかかるのだし。
それに、やっぱり寒いことそれ自体には慣れているのだ。お風呂上りに比べたら、昼間だし、まだまだマシだ。
昇降口について、靴に手を掛ける。元々は白かったはずなのに、埃や土、雨の日の泥なんかですっかりくすんだ色になってしまった運動靴だ。靴の裏はとっくに軽く剥がれてしまっているけれど、とうとう靴紐も切れてしまいそうだ。
――それはちょっと縁起わるいかな。
校庭では、いつも通りの点呼が行われている。どうせいつもちょっとだけ遅れるから、いつの間にか冬子は一番最後に呼ばれるようになった。だから、多分まだ冬子は呼ばれていない。
小走りで校庭に出て、隊列に混じる。丁度そこで、冬子は名前を呼ばれた。
「はぁい」
ちょっと間の抜けた返事をする。いつものことだから、体育教師も何も言わない。もう、そういうものだと思われてしまっている。
「今日は二キロだから前回よりもペース配分に気を付けることが注意点。んじゃ、準備体操。あと望月、髪結べ」
「あ」
長い癖毛は、四分の一くらいは体育着の中に入ったままに、残りの四分の三も好き勝手に外で暴れていた。
両腕を見ても、髪のゴムはない。
「使いなー」
隣にいたクラスメイトが、黒いゴムを渡してくれる。
「ありがとう」
お礼を言って、冬子は一つ結びを作る。
――つめたいなぁ。
体育委員が準備運動のために前に出るのを見ながら、冬子はのんびりと考えていた。
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