とろ

七条ミル

第1話「煮干し」

「とろ、今日も遅刻?」

 朝のホームルームが終わったタイミング。担任と入れ違うように教室に到着したとろと呼ばれた少女は、ゆっくりと顔を持ち上げた。少女の印象がどこかやぼったいのは、身体よりも大きい制服が原因か、切られることなく伸びている黒い癖毛のせいか、真ん丸の眼鏡のせいか。あるいは、その全てが要因となっているのか。

「猫がいた」

 手足を前の方に伸ばして、眠気を飛ばすように少女は伸びをする。机から出た足は白く、どこか不健康そうに見える。

「この間も同じこと言ってたよね、とろ」

 うん、と頷いた少女は足を自分の机の中にしまうと、机の上に教科書とノート、それからどこかぼろっちい印象のあるペンケースを取り出す。ペンケースには平仮名で「もちづき ふゆこ」と書いてある。漢字で書けば望月冬子。それが、少女の名前だ。

「今日は大家さんに貰った煮干しを、あげた」

 また鞄に手を入れた冬子は、手に煮干しが沢山入ったジップロックを持ってずっと横に立って話しかけていた友人に向ける。

「これ」

 冬子の目線の先で呆れ顔をしているのは、織笠おりかさめぐみ。冬子の、唯一と言ってもいい友人だった。冬子とは対称的に健康的で引き締まった体躯と、どこか少年を思わせるような短い髪は、いっそう冬子の不健康さを際立たせていた。

「なんで持ってきてるの」

 恵がそう問えば、冬子は顔をこてんと右に倒し、不思議そうな顔をする。

「おやつ」

 言いながら冬子はジップロックを開けて、煮干しを一匹口に放り込んだ。

「おいしいよ」

 シャリシャリと煮干しを咀嚼する冬子は、やはりどこかやぼったい。恵が呆れ顔をさらに深くするのを見て、冬子は不思議に思いながらもう一匹、煮干しを口に入れた。

「この寒いのに、よくまあ猫におやつを分け与える余裕があるねぇ」

「ちょうだいって、言ってた気がしたから」

 おおさむ、と身体を震わせる恵に、冬子は紺色のブレザーを脱いで渡す。冬子にはだいぶ大きくて丈も袖も余る代物だが、恵になら丁度いい大きさか、少し大きいくらいで済むだろう。

「ああ、借りる」

 重ね着する恵に、冬子は煮干しも一匹渡してみる。

「…………なに?」

「食べたいかなって」

 如何せん、まだまだ煮干しは沢山あるのだ。家にも二袋くらいあるし、人にあげる余裕も出てくる。

 やはりどこかサイズの合わないカーディガンの袖から煮干しだけを覗かせて、冬子は少しずつ腕を恵の方に近づけていく。少しあとずさりする恵の右手を左手で軽く掴み、口の中に煮干しをぽんと押し込んだ。

「むが」

 しゃりしゃりと煮干しを咀嚼する友人を見て、冬子はどこか満足気な表情を浮かべる。

「おすそわけ」

「結構んまいな」

「でしょ」

 冬子はもう一匹、とジップロックの中に手を入れる。

「まだ食べるの?」

「授業まで、あと三分ある」

 ――三分あれば沢山食べられる。

 どこも論理的ではない文章を言外に伝えた冬子は、ぽんと口にまた煮干しを入れる。

 三分前にもなれば、教師も授業の準備のために教室に入ってきて、教壇に荷物を置いた。買い物かごの中にはプリントが何種類か、全員分入っていて、そこそこ重そうに見える。自分だったら落とすかも、と冬子は少し思った。

 じっとかごの方を見ていたからか、ふと顔を上げると教師と目が合う。冬子の右手には、まさにも口に入れんとしていた煮干しが摘ままれていた。

「なんで煮干し食ってんだお前」

 教師の呆れ顔から目をそらし、恵の方を見ると、恵も同じように呆れ顔を作っていた。

「……おいしいから?」

 もう一度教師の方を見て言い、手につまんでいた煮干しを口に入れる。

「つかお前またホームルーム遅れてただろ」

 うん、と冬子は素直に頷く。

「今日は何してたんだ?」

「猫に煮干しお裾分けしてた」

「とろがとろたる由縁」

 恵が言って、教師がそれもそうか、と納得したような声を上げる。

 一体いつからと呼ばれているのか、冬子は覚えていない。恵はずっと冬子のことをとろと呼んでいるし、記憶にある限りではクラスメイトは大体冬子のことをと呼んでいる。そうでなければ、望月さん、とかだろうか。

 いつからかもわからないのだから、どうしてかもわからない。多分「とろい」から来ているのだろうけれど。

 ただ、冬子自身、ちょっとだけ、というあだ名を気に入っていた。

 だから、冬子は少し微笑んで――

「先生にもあげる」

 ――と、椅子から立ち上がったところで、一時間目の始まるチャイムが鳴った。

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