翌日、仁が目を覚ました時、花音はもう家にはいなかった。

 悪魔の探知網の精度を上げてくる、という置手紙を呼んだ仁は、ぼんやりと時間を過ごしながら昨日の出来事を振り返る。


 現在がどうであれ、自分が討滅すべき悪魔は元は人間だったということ。

 聖騎士として戦うということは、人間だった存在を斬らなければならないということ。

 そして、自分は既にその罪を背負ってしまっているということを改めて自覚した仁は、自分のこれからのついても思いを馳せていった。


(悪魔に憑依された人間を救う方法はないと、彼女は言った。そうであるならば、僕は……)


 命を懸けて戦うだけでは済まない、聖騎士としての道。

 人を守るため、犠牲を出さないために戦うと聞けば英雄のように思えるが、同時にそれは守るべき存在であったはずの人間を殺さなければならないという矛盾も抱えている。

 これから聖騎士として悪魔を倒せば倒す程、自分の中で何かが失われていくような……大切な何かを犠牲にしてしまうのではないかという恐怖に駆られる仁。


 こんな大事なことを自分に教えてくれなかった花音のことを、相棒として信頼できるのだろうか?

 彼女が籍を置く『C.R.O.S.S.』も、自分を聖騎士の道に誘った伊作も、信用できる存在なのだろうか?


 昨日は彼女の気遣いを理解したと口では言った仁であったが、心の奥底では花音が自分を利用しているだけなのではないかという思いが拭い去れずにいる。

 悪魔を倒す卒業試験をクリアするために、何も知らない無知な自分を戦力として都合よく使っているだけなのではないだろうか。

 花音は聖騎士に対して偏見はないと言っていたが……その言葉だって嘘だという可能性もある。


 何を信じればいいのか、自分がどうすればいいのか、今の仁は迷ったままだ。

 聖騎士として戦う覚悟は決めてきたと思っていたが、そんな覚悟など何の意味もなかったなと、自分自身の考えの甘さを反省する彼は、気が付けば迷いを抱えたまま、昨晩訪れた街へとやって来ていた。


 人でごった返す昼の街はとても賑やかで、人々は昨夜ここで何が起きたかなんて知る由もないのだろう。

 しかし……また一人、悪魔の手で命を奪われた人間が確かに存在するのだと、そのことを知っている仁は交番の前に張られた行方不明者を探すポスターを見て、拳を握り締める。


 世の中には知られていない、通り魔殺人の被害に遭った人物……悪魔に憑依されたあの男の写真をじっと見つめ、複雑な思いを抱える仁。

 聖剣の力によって悪魔に憑依される寸前に彼が何を思っていたかを知ってしまった仁は、ただ純粋に死にたくないと願った彼のことを悪だとは思えずにいた。


(通り魔に襲われて、殺されかけて……それで生きたいと願った人間の想いを摘み取る権利が、僕にあるのか? 聖騎士って、そんなに偉い存在なのか……?)


 理不尽な暴力、予想だにしていなかった不幸、突如として降りかかった絶望から逃れたいと思うことは、決して悪ではない。

 死にたくない、生きていたいという生物として当然の願いを我欲として斬り捨てることなど自分にはできないと思いながら歩む仁が足を進めたのは、昨晩に悪魔と遭遇したあの場所であった。


 この場所も、昨晩とほぼ変わりがない。

 警察が捜査をしていないということは、まだ誰も事件に気が付いていないということだろうか?

 悪魔が食べ残した腕が見つかっていないのか、あるいはあの悪魔が何らかの理由で一度は放り捨てた腕を持ち帰ったのか……そのどちらだとしても、誰も昨日、ここで殺された人間がいるとは思わないのだろうなと、そう考えていた仁の目に、あるものが留まる。


「これは……」


 昨晩、自分が力なくもたれ掛かった電柱。その根元に花束が供えられている。

 真新しいそれがまだ供えられて間もないものであると理解した仁は、周囲を見回してから改めてその花を見やった。


 ……ここで悪魔に殺された人間がいることを知っているのは、その光景を目の当たりにした自分と花音だけだ。

 ということはつまり、消去法でこの花を供えたのは花音ということになる。


 探知網の強化をしに街へと繰り出した彼女は、そのついでに犠牲者へと花を供えたのだろうか?

 道端に膝をつき、そっとその花々に触れた仁は、その瞬間に昨晩と同じように頭の中に浮かび上がってきた光景を目の当たりにして、はっと息を飲んだ。


『……ごめんなさい。あたしがもっと早く悪魔の存在を探知できる術式を張っていたら、あなたを助けられたはず。あなたを救うことができなくて、本当にごめんなさい……』


 悲しそうに、申し訳なさそうに、犠牲者の魂へと謝罪しながら花を供える花音の姿がそこにはあった。

 その表情と悲痛な感情に触れたことで彼女がついでで犠牲者を弔っているわけではないと理解した仁は、フラッシュバックの再生が終わると共にゆっくりと立ち上がる。


『必ず、助け出すから。悪魔に食われたあなたの魂は、必ず解放してみせるから……!!』


 そんなふうに犠牲者へと語る花音の声が、頭の中から離れない。

 被害者の命を救えなかったことを悔やむ彼女は、その中でも最善を尽くそうと懸命になっていることが仁にも伝わってきていた。


 考えたこともなかったが、悪魔に食われた人間の魂は何処に行くのだろうか?

 もしかしたら、悪魔が討滅されない限りはずっとその体内に封じられたままなのかと、天に召されることもなく延々と悪魔の内部に閉じ込められたままの犠牲者の無念を思った仁は、ゆっくりと瞼を閉じると共に息を吐く。


 自分には足りないものが多過ぎる。覚悟もなければ知恵も足りない、おまけに信頼できる相手すら存在していないのだから。

 だが……それでも、何かを成すことができる力だけは手にしているはずだ。


 だとするならば、自分にはその責任を果たす義務がある。

 何かを成すことができる力を、正しいことのために振るうという責任が。


「裁くことも、断ずることもできない。僕にできることがあるとすれば、それは――」


 何かを思うような言葉を口にした仁が、踵を返して電柱に背を向ける。

 そのまま、来た道を帰っていく彼の瞳には、覚悟の蒼い炎が灯っていた。 




 ……そして、その日の夜。

 昨晩と同じように支度を終え、装備の確認を終えた花音は、相棒である仁へと視線を向ける。

 何度か口をもごもごと動かした後、彼女はためらいがちに口を開いた。


「本当にいいの? 相手は低級の悪魔なんだし、あたしに任せて仁くんは待機しててもいいんだよ?」


「ううん、いいんだ。僕も行く。どうしても確かめたいことがあるから……」


 上から下までを覚悟の黒で統一した出で立ちの上から、優しさの蒼を羽織った仁が花音へとそう答える。

 首から下げる信念と使命を表す銀の十字架に触れた彼は、確かな覚悟を胸に花音と共に夜の街へと飛び出していった。


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