第31話 密談
王太子のために紅茶を淹れることになったエステルは、別室でお湯を沸かしていた。
(おいしいお茶を淹れるには、新鮮なお水を沸騰させるのが大事……)
カフェでは鍋を使っているが、王宮で使われている茶器やケトルは高級なものだ。使い慣れずに緊張してしまうものの、王太子に紅茶を淹れてほしいと言われたことを思い出すとうれしさを隠せない。
(子どもの頃、お菓子を作っても家族以外に食べてもらう機会がなかったのよね。それを思うと夢のようなお話だわ)
ルシアンは打ち合わせがあるということで席を外していた。普段は応接室として使われていそうに豪華な部屋でひとり、茶葉をポットに入れていく。
(一さじ、二さじ……)
ふと、話し声が聞こえてエステルは手を止めた。廊下で誰かが話しているらしい。
エステルがお茶を淹れるために立てる、とぽとぽという水の音と、開け放たれた窓から入り込む風でカーテンが揺れる布擦れの音。
静かな中に、その声は響く。
「アイヴィー様はどこだ? せっかく厳重な警備をくぐり抜けて入り込んだってのに、落ちあえないんじゃ意味ないぜ」
「まぁそうカッカすんなよ。伯爵家のご令嬢で聖女だろ? 金払いはいいんだから」
(……この声!)
絶対に忘れることがないその声に、エステルは体を震わせた。ポットが手からカートの上に滑り落ちて、割れることはなかったもののカシャンと音を立てる。
(この声……あの夜の……)
間違いない。死に戻る直前、ひっくり返りかけた馬車の向こうで聞こえた声と同じだ。その後、黒い夜霧が入り込んできて、自分は――。
震えが止まらない、と思ったところでエステルは急に我に返る。
(あれ? 黒い夜霧。普通、夜霧って色がついていたかしら。もっと最近よく見たものに近い気がするのだけれど……)
一旦落ち着くと、招待客に扮して紛れ込んでいるらしい二人の会話がより鮮明に聞こえてくる。
「今日、この場でエステルを攫うように言われてんだよな」
(……ここで攫う? 私を!?)
全く知らない展開に、エステルは青くなって口を両手で抑える。廊下の男たちは会話を続けた。
「聞いてないぜ。なんでこんな夜会で? もっと目立たないタイミングを狙えばいいだろうに」
「いや、なんか傷物っていうレッテルを貼りたいらしいぜ。夜会の最中、婚約者でもない男と密会してたなんて噂が立ったら手遅れだろう? アイヴィー様はそれを狙ってるらしい。あっさり殺したら記憶に残っていつまでも引きずられるけど、家の評判を落とした娘は許されず、嫌われて忘れられるだろう、って」
「ひえ。えげつねえな。アイヴィー様の性格の悪さには引くわ。正直、面倒な依頼ではあるよな。エステルは普段カフェやってんだろ? そっちで攫えたら楽だったのにな」
「いや、そっちのがハードル高かったわ。前に行ってみたんだが、なんかやべえ結界が張られていて敷地に一歩も入れなかった」
(…………)
間違いなく、ルシアンが張った結界のおかげである。
「レモンタルトとケークサレがうまいって話だったんだが、食べるどころか一歩も入れずに終わった」
「やべえな、それは」
(…………)
どう考えても営業妨害だった結界が、本当にエステルの身を守っていたとは。二人に対する怯えを感じつつ、ルシアンには感謝しかない。
「しかもさっき知ったんだが王子サマの婚約者で溺愛されてるぽいぞ? あの冷酷な王子の婚約者を攫うって……。これ、俺らの働きに見合った報酬はもらえんのか?」
「……今から降りた方が良くね?」
話し声は少しずつ遠ざかっていく。会場へと向かっているのだろう。
けれど、今エステルが出ていったらアイヴィーの思う壺である。ルシアンが戻るまではこの部屋に隠れて大人しくしていた方が良さそうだ。
(……とにかく、ルシアン殿下に相談してみよう。きっと力になってくれる。……でも、何と相談をすればいいの)
自分は死に戻って二度目の人生なんです、なんて普通信じてもらえるはずがなかった。けれど、あることに思い至る。
「闇魔法には死に戻りの禁呪があるわ。その存在を知っているルシアン様ならきっと信じてくれるはず……!」
死に戻りの禁呪というのは、闇魔法の使い手だけに許される高度な魔法だ。
強力な影響を持つ代わりに代償も発生する。いわゆる、使用すると『呪い返し』があると言われているのだ。
エステルも、自分が闇属性の魔力を持っていると知ってから、自分の死に戻りはこの禁呪が原因なのではと思った。けれど、その呪文も使い方も知らないし呪い返しにも襲われていない。
「呪い返し、というなら……むしろ本音を隠せないルシアン殿下のあの状況がしっくりくる……」
しかし、あんな代償を払わされることがあってもいいのか。いや絶対によくないし、そこまでセンスのない呪い返しはないだろうとエステルは高を括る。
それに、甘い言葉を吐くだけ吐いてから顔を紫に染めるルシアンのことを思い返すと同情しかない。
エステルは、割れずに済んだ王城の高級な茶器を手に取ってしげしげと眺めた。どこも欠けていない。けれど、蓋を開けて中を確認すると紅茶はどす黒く変色していた。
「もしかして、これは……毒、というものになってしまったのかしら」
お茶を淹れながら、さっきの会話を聞いてしまったからなのだろう。
以前、全身の毛を逆立てて毒だと連呼していたクロードの姿を思い浮かべる。自分で舐めて確認してもいいが、解毒薬を作ってからの方がいいだろう。
「そうだ、ミルクティーを淹れよう」
カートに載っていた持ち運び用の小型コンロに鍋をのせ、ミルクを温める。それからシャルリエ伯爵家の厨房に伝わる歌を小声で口ずさんだ。決して楽しい気分ではないが、今は声に出さないとまた毒になる可能性があった。
そうしているうちに、キイッと音がして部屋の扉が開く。
「――随分楽しそうにお茶を淹れるんだね」
「王太子殿下……」
入ってきたのは、さっきエステルにお茶を淹れるように頼んできた王太子である。
問題は、彼が連れていた令嬢だった。
「……! アイヴィー!?」
「エステルお姉様、お元気ですか? 会場の中でお話がしたかったんですが、なかなか声をかけられなくて。会場を出られるのを見て、空き部屋を捜していたら王太子殿下が声をかけてくださったんです」
「……王太子殿下、ありがとうございます」
アイヴィーには答えず、エステルは王太子に向かい礼をした。王太子が何かを口にする前に、アイヴィーは当然のように口を挟んでくる。
「私も王太子殿下に紅茶をお淹れしたいですわ。私も聖女ですので、私が淹れた紅茶を飲むと元気になると言われていて」
「……そうなの?」
初耳すぎて、緊張が解けた。エステルはアイヴィーがお茶を淹れているところなんて見たことがない。
「……とにかく。二人は向こうのソファにお座りになっていて」
「……」
「エステル嬢。向こうで座ろうか。君を立たせて待たせたら、ルシアンに叱られそうだ」
王太子に促され、エステルはしぶしぶカートを離れる。
いつもこうなのだ。アイヴィーはエステルだけが注目されることを好まない。エステルが褒められることがあると、何とかして上を行こうとする。
これまでは大体『光属性の魔力量に優れている』がアイヴィーの武器だった。
けれど、今日だけは無駄に思えた。ルシアンによると、光の魔力では外側から、闇の魔力では内側から浄化するものらしい。光属性の魔法しか使えないアイヴィーには特別なお茶を淹れることはできないだろう。
(私の味方になってくださるルシアン殿下が戻るまでは、話を合わせておいた方がいいわ……)
大人しく座ってから少しして、三つのティーカップが運ばれてきた。見た目には普通の紅茶である。アイヴィーにお茶が淹れられたことにびっくりしつつ、エステルはカップを鼻先に運んでみる。
(色の割に……香りがしないわ)
しっかり色は出ているのに、茶葉の香りがほとんどしない。
「王太子殿下。一応、私が、」
お毒味を、と言おうとした。けれど、エステルの向かいに座る王太子は既にカップに口をつけていた。
「……!?」
その瞬間、王太子の目が僅かに見開かれた。
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