終章 旅立ち②


(────アリサ、本当にあれでよかったのですか?)


 客船のデッキで一人海を眺めていたアリサに、フィリアが内側から問いかける。


(うん、ごめんね。色々と迷惑かけちゃって)


 龍也はしばらく大質量の水は見たくないと言って、客室に引きこもってしまった。彼女が甲板に上がったのは、一人になりたかったというよりも、フィリアとの会話を龍也に勘付かれたくなかったという理由の方が大きい。


(……いえ。私にはこの世界での長期的な滞在手段を得られるというメリットがあったので問題はありません。むしろ問題はあなたです)


(私?)


 こてんと首を傾げたアリサに、フィリアは呆れた様子で、


(私と契約したことで、あなたはおそらく人類初となる天使憑きになりました。今後も、私を狙った天使側からの襲撃は続くでしょう。同じ身体を共有している以上、あなたも否応無くその争いに巻き込まれることになります。……最低でも、私の目的である停戦または終戦が実現するまで、あなたに平穏が訪れることは無いでしょう)


(ああ、そのことね)


 危機感をほとんど感じていない様子でアリサは微笑む。


(みんな勘違いしてるみたいだけど、私は別に平穏とかどうでもいいの。そりゃもちろん、平和で安全であるに越したことは無いけど、私にとってはリュー君と一緒にいられるかどうかの方がよっぽど重要だもん)


(……例え己の命を危険に晒しても、ですか?)


 暗にセロスとの戦闘時の彼女の無謀な行動を非難するフィリアの発言を、アリサはノータイムで肯定した。


(もちろん。リュー君のいない世界なんて、生きてる意味が無いもの)


(──────)


 思わず絶句したフィリアの脳裏に、結界が発生した日の夜、彼女との間で交わされた密約がフラッシュバックする。





「もしかしてなんだけど、私って聖気に対する適性があったりする?」


「……何故そう思うのですか?」


 アリサは悲しそうに微笑んで答える。


「別に、根拠は無いよ。私にデモニアとしての適性が無いことはもう分かってるから、駄目元で聞いてみただけ」


 そっと目を伏せたアリサに対して、質問に正直に答えると誓ったばかりのフィリアは、慎重に言葉を選びながら口を開く。


「……あなたの目的を達成できる程かは分かりませんが、あなたの適性は少なくとも一般人よりは高いと言えるでしょう」


「ほ、本当!?」


 勢いよく食いついてきたアリサにたじろぎながらも、フィリアは頷いた。


「え、ええ。それで、あなたの目的は何なのですか?こんなことを聞いてくるのですから、なんとなく、といった適当な理由ではないのでしょう?」


 アリサは真剣な表情で頷き、その言葉を口にした。


「──フィリア。私と契約を結んでほしいの」


「…………それは、私と契約して天使憑きになりたいという解釈で合っていますか?」


 思わず言葉に詰まってしまったフィリアは、何とか平静を保って質問を返す。


「うん。フィリアも、この世界に留まるために契約者が必要なんでしょ?もし私にその資格があるなら、私を選んでほしい」


「…………」


 しばらくの沈黙の後、フィリアはアリサの顔を真正面から見据えて、再び口を開く。


「それは、彼とともに学園に向かうため、ですか?」


「……うん。そうだよ」


「…………確かに、あなたと私が契約し天使憑きになれば、あなたは学園に行く資格を得られるでしょう。しかし、その選択はあなたに多くの犠牲を強いることになる。少なくとも今までのような平穏はなくなり、死と隣り合わせの生活になることは間違いありません」


「それでもいい。リュー君の隣にいられるなら、他には何もいらないの」


「……彼は、あなたのその選択を歓迎しないと思いますが」


 フィリアの反論に、初めてアリサが言葉を詰まらせる。しかし、彼女は覚悟を決めた顔でフィリアを見つめ返し、


「…………決めたの。今回ばかりは私のわがままを押し通すって。例えリュー君がそれを望んでくれなかったとしても、それでも私はリュー君と一緒にいたい。お願い、フィリア。あなたの目的を果たすために私を利用してくれても構わない。だから、私と契約して私の願いを叶えて……っ!」


 彼女の手を両手で握り、深々と頭を下げて懇願するアリサを見つめるフィリアの脳内で、いくつもの逡巡と困惑、そして打算が渦を巻く。


「…………あなたの覚悟は伝わりました。ですが、決断を下すには些か時期尚早です。お互いに少し考える時間を置きましょう。龍也が学園に向かう直前になってもあなたの意思が変わっていなければ、私から土御門に打診してみます」


 断定を避けたフィリアの返事に、アリサは少し考え込んだ後、感情の窺えぬ笑みを見せて言った。


「……分かった。ありがとう、フィリア」





(──あなたにとってあれが悔いのない選択であったのなら、もう私から言うことはありません。普段の生活での肉体の主導権はあなたに委ねます。用がある時は呼んでください。それ以外の時は基本的に奥に潜っていますので)


(うん、分かった。これからよろしくね、フィリア)


(……ええ。では失礼します)


 アリサとの会話を打ち切り、深層に潜ったフィリアは重いため息をつく。


 セロスとの戦闘時の、彼女の突然の乱入。おそらくあの行動の真の目的は、フィリアと彼女が契約を結ばざるを得ない状況を作り出すこと。


 フィリアの煮え切らない態度を信用しかね、己の命を賭けのチップに利用することで強引に自身の目的を遂げた彼女の執念に、思わずフィリアは背筋を震わせる。


 しかし、彼女の龍也を想う純粋な感情には一片の嘘も紛れてはいない。


 一途に一人の人間を想い続ける純粋さと、己の目的の為なら自身の命すら平然と利用する強かさ。その二つを相反することなく共存させている天壌アリサの心のありよう。そしてそこから滲み出る狂気の片鱗に、フィリアは恐怖を感じずにはいられない。


 愛は時として人を狂わせる。いや、それとも彼女は最初から狂っていたのだろうか。


(ひょっとして私は、とんでもない人間と契約を結んでしまったのでは────)

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