第八章 覚醒⑥
龍也が意識を取り戻すと同時に、全身をプレス機にかけられたかのような猛烈な痛みが襲いかかってきた。
(…………っ!流石に今回はやばかったな。それにしても、何だったんださっきのは。なんか自分が自分じゃ無くなってたような……?)
意識を失っていた間も、夢を見ているかのような感覚で自身の行動は知覚していた。自分以外の誰かの破壊衝動に突き動かされているような、気持ちの悪い感覚が強く残っている。
(セロスとかいう天使に向けられてた殺意をルービックの方に無理やり移せたのはマジでラッキーだったな……。どうやったのかはあんま覚えてないけど)
(──どうやら無事に戻ってこれたみたいだな。やれやれ、悪運の強い奴だ)
(ジーク。お前そういや今回の件について何か知ってるみたいな口ぶりだったよな?詳しく──)
そんな二人の会話は、フィリアの切羽詰まった声によって中断させられた。
「──アリサ!しっかりしてください!」
「────っ!?」
龍也の喉が一瞬で干上がった。慌てて地上にいるであろう彼女の姿を探す。
彼の視界に移ったのは、肩口を大きく抉られ血の海に沈むアリサと、その傍らにしゃがみ込み必死に救命措置を行なっているフィリアの姿。
(──う、嘘だろ!?だってあいつを狙ってたルービックは確かに俺が──)
凍る思考とは裏腹に、体は半自動で急降下し、彼女のそばに走り寄っていた。
雨は止んだとはいえ依然膝下の高さまである雨水の中、力無く水に浮かぶ少女の周りでは、彼女の中から溢れ出した赤色と、土やほこりを吸い込み濁り薄汚れた茶色が生々しいマーブル模様を描いていた。
「お、おい、アリサ!返事しろよ、アリサ!!」
錯乱状態に陥っている龍也にさえ迂闊に触るべきではないと判断させるほど、彼女の容体は悲惨の一言だった。
首から肩にかけて筋肉や脂肪が抉れ、骨まで露出している上、右腕は肩の大部分が消し飛ばされており、脇付近の皮と脂肪、粉々に砕かれ僅かに残った骨のかけらだけでかろうじて胴体と繋がっているような状態だ。
彼やフィリアの呼びかけに対してもほとんど反応はない。大量出血と痛みによる衝撃で意識を失っているのだろう。
この惨状は、医学に関しては素人の龍也から見ても致命傷と断言できるほどだ。
「今、生命維持の術式を複数同時に行使しています。ですが────」
彼女のそばに跪いたフィリアが、手のひらサイズの円陣を複数展開しながら龍也に話しかける。しかし、その顔色から状況が芳しくないのは明らかだった。
「もっと出力を上げることはできないのか!?どう見ても回復が間に合ってねえ!このままのペースじゃ──っ!」
龍也の指摘にフィリアは首を振り、
「これ以上の出力は、彼女の体が耐えられません。本当ならこの出力だって一般人には──」
途中で何かに気付いた様子のフィリアが黙り込む。
「そんな……、おい、ジーク!聖気が駄目なら魔力でどうにかできないか!?」
(無理だな。どうやら嬢ちゃんは魔力より聖気の方が適性が高いらしい。それに、魔力は自己治癒は簡単でも他人への治療には向いてねえんだ。そっちの天使でどうにかできねーならお手上げだ)
「──じゃあ、どうしろっていうんだよ!!」
やり場のない憤りと焦燥に、龍也は思わず膝をつく。
一番守りたかった幼馴染が目の前で死にかけているというのに、龍也には何もしてやることができない。
七年間磨き上げてきた刃では、敵を倒すことはできても、味方を癒すとなると何の役にも立たない。
このままでは治癒が間に合わずアリサは死ぬ。しかし、これ以上術式の出力を上げれば今度はアリサの体がそれに耐えきれず、おそらく死ぬ。
────万事休すか。
絶望のあまり、龍也の視界が黒く染まりかけた時、フィリアがポツリと呟いた。
「…………一つだけ、彼女を救えるかもしれない方法があります」
「────っ!?ほ、本当か!?」
藁にもすがる思いでフィリアを見上げる龍也に、彼女は真剣な視線を向け、
「……龍也、一つだけ確認させてください」
「あ、ああ。何だ?」
今はフィリアだけが頼りだ。龍也はそんな悠長なこと言ってる場合か、と怒鳴り散らしたい衝動をぐっと飲み込む。
「あなたは、アリサが今後どのような立場に置かれたとしても、彼女を見捨てず、そばで彼女を支え続けると誓えますか?────たとえ、彼女が世界の全てから孤立したとしても」
「……ああ。もちろんだ」
質問の意図はいまいち理解できなかったが、龍也は迷わず頷いた。そんなこと、七年前にはすでに心に決めている。
「…………いいでしょう」
龍也の瞳を見つめ、彼の返答に嘘がないと認めたフィリアが頷き、その言葉を口にした。
「彼女には常人とは比べ物にならないほどの高い聖気適性があります。今の状態ではこれ以上の治癒術式には耐えられませんが、私と契約を結べば話は別です。飛躍的に耐性を高めたアリサに一気に治癒を施せば────」
「────ちょ、ちょっと待て!それってつまり────」
狼狽を隠せない龍也に、フィリアはゆっくりと頷いた。
「彼女が、天使憑きになるということです」
「……人間と天使の契約なんて聞いたこともねえ。本当に可能なのか?」
「おそらく。天使と悪魔、聖気と魔力は性質こそ真反対ですが、本質は同じ。そして人間とは透明な水のようなもの。白にも黒にも簡単に染まってしまう、純粋で危うい生き物ですからね」
「…………」
ようやく、先ほどのフィリアの問いの意味が理解できた。もしアリサが天使憑きになれば、ほぼ間違いなく彼女は人類と天使による戦争の渦中に巻き込まれていくことになるだろう。
七年前、人類の半数近くを手にかけた史上最悪の仇敵である天使をその身に宿すとなれば、デモニア以上の壮絶な迫害を受けるであろうことも想像に難くない。下手をすれば天使側だけではなく、人類側も含めた、まさしく世界の全てを敵に回す可能性すらある。そんな地獄を、彼女一人でくぐり抜けられるとは到底思えない。────だが。
「────分かった。やってくれ」
「…………後悔、することになるかもしれませんよ」
フィリアの最後の確認に、龍也は覚悟を決めた目で頷きを返す。
「どちらを選んでも後悔するっていうなら、俺はアリサが生きられる未来を選ぶ。もしこの選択の結果が、アリサにとってあの時死んでいた方がましだったって思うくらいひどいものになるっていうなら、そんな未来は俺が変える。たとえ何を敵に回すことになったとしても、こいつの幸せだけは俺が絶対に守ってみせる!」
──そうだ。アリサを危険から遠ざけるために自身の心を押し殺して彼女を置いていくか、危険を覚悟で共に行くか。そんな小さなことでくよくよ悩んでいたのがそもそもの間違いだったのだ。
簡単なことだったのだ。彼女と共に歩む道に、いくつもの困難が待ち受けているのなら、その全てを薙ぎ払って進んでいけばいい。
そんな理想論を現実の物とするために、あの日、人間の身には余る力を求めたのではなかったのか。
もし今の龍也ではその夢物語を叶えられないというのなら、何度でも、どこまでも、強くなり続ければいいだけの話だ。
龍也の願いはアリサが幸せになること、そして彼女と共にあること。もし彼女が少しでも己の幸せのために龍也を必要としてくれているのなら、もう答えは決まっている。
「────分かりました。あなたと、そして彼女の選択を信じましょう」
頷いたフィリアは、複数展開していた小型の円陣を一つ一つ消していく。
そして、深呼吸をして覚悟を決めたフィリアが展開したのは、これまでとは比べ物にならないほどの規模と緻密さを誇る魔法陣。
「────────」
フィリアの、彼女たち天使の本来の言語だろうか。フィリアの詠唱に呼応するかのように魔法陣の輝きが増していく。すると少し遅れて、フィリアの体が端からほつれて輪郭が崩れていった。
「────────!」
完全に光の粒子と化したフィリアの、歌声のようにも聞こえる旋律だけが静まり返った住宅地に響く。
粒子がゆっくりとアリサの胸に吸い込まれていくのと同時に、彼女の傷が映像を逆再生しているかのように塞がっていく。
「────────っ!」
締めの詠唱と同時に、アリサの体が一際強く輝いた。
思わず目を閉じた龍也がおそるおそる瞼を開けると、そこには血色を取り戻した穏やかな顔で水面に浮かぶアリサの姿があった。
先程までの目を覆いたくなるような傷は何事もなかったかのように全て塞がっており、痕一つ残っていない。派手に裂けた服とそこに染み込んだ大量の血痕だけが、先程までの惨状が夢ではなかったことを物語っている。
「──────ぅ」
「────っ!アリサ!」
ゆっくりと目を開けたアリサ。龍也は慌てて彼女の体が沈まないように背中を支え、上から覗き込んだ。
「────リュー、君。…………よかった、無事だったんだね」
「…………っ!馬鹿野郎、それはこっちのセリフだ……っ!」
龍也の体を途方のない安堵が包む。緊張の糸が切れ、地面に座り込んでしまった龍也の体に、未だ聖気が残留している雨水がピリピリとした痛みを伝えてくるが、最早そんなことは気にもならない。
胸元まで水に浸かったまま座り込んでいる龍也と、彼に支えられ水にプカプカと上半身を浮かしているアリサ。普段よりもずっと近い距離で、二人の視線が絡み合う。
「…………どうしてこんな無茶をしたんだ」
「…………ごめんなさい」
そっと伏せられたエメラルドのように輝く彼女の碧眼、その右目の瞳孔が黄金色に変化していることに気付く。
「契約は、上手くいったみたいだな」
アリサはくすぐったそうに微笑み、
「……うん、自分の中に自分じゃない人がいるのって、なんだか変な感じ。ちょっと待っててね──」
アリサが一度瞼を閉じ、ゆっくりと開くと、彼女の柔らかそうな表情が引き締まり、取り澄ましたかのような表情に変化した。
「──契約は無事に完了。彼女の肉体の修復にも問題はありませんでした」
「……そうか。ありがとな、アリサが助かったのはお前のおかげだ」
あからさまに態度が事務的に変化し、心なしか近づいていた顔を遠ざけた龍也に、フィリアは心底呆れたような視線を投げる。
「……どうやら私はお邪魔虫のようなので、しばらく奥に潜っています。龍也、あなたに伝えておきたいことがありますので、また後ほど」
そう言い残して瞼を閉じたフィリアに代わり、もう一度浮上してきたアリサが龍也に非難がましい目を向ける。
「もう、リュー君ってば、もう少しフィリアにも優しくしてあげなよ。これから長い付き合いになるかもしれないんだから」
「……愛想よく振る舞うのは苦手なんだ」
「私といる時は普通なのに」
「お前は特別だからな」
何気なくこぼされた龍也の呟きに、アリサの頬が赤く染まる。
「リュー君、それって、どういう──」
「あ、いや、その──」
しまったという様子で視線を泳がせた龍也だったが、アリサの恥ずかしそうな、それでいて答えを求めるかのようにまっすぐと向けられた視線に根負けし、彼女を正面から見つめ返した。
「……別に、言葉通りの意味だ」
「……リュー君にとって、私は特別?」
「ああ。だから、これからも一緒にいてほしい」
「…………へ?」
龍也からかけられた予想外の言葉に、アリサの表情がピシリと固まる。
気恥ずかしさに耐えられなくなったのか、視線を外してそっぽを向いた龍也がボソボソと説明を加える。
「その、今回の一件で気付いたんだ。どうやら俺は、お前がいないと上手くやれそうもないって。最初はお前を危険から遠ざけようとして、わざと冷たく接したりもした。……でも本当は、お前を危険な目に遭わせたくないって思うのと同じくらい、俺はお前と一緒にいたかった。俺が死にかけたりお前が死にかけたり、もうお前と会えなくなるんじゃないかっていう目にさんざん遭ってようやくはっきりした。だから────」
呆然と、まるで夢でも見ているのではないかといった顔で彼を見つめていたアリサを見つめ返し、龍也はその言葉を紡いだ。
「────俺にはお前が必要だ。俺と一緒に、学園に来てほしい」
「────────」
ポタリ、と彼女の頬を一滴の涙が伝い、水面に波紋を生んだ。
一度決壊した涙腺は、もう言うことを聞かない。次々に大粒の涙を流し始めたアリサに、龍也は慌てふためく。
「わ、その、ごめん、ごめんって!そうだよな、あそこまで言っといて今更こんなこと言うの虫が良すぎるよな。俺が悪かった!だから──」
「────違う、違うの。私────」
アリサは自身の思いを必死に伝えようとするが、嗚咽が止まらず上手く喋れない。
──だってそれは、彼女にとって欲しくて欲しくてたまらなかった言葉だったから。
アリサは震える両腕を龍也の背中に回し、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を彼の胸に押し付ける。
もう二度と離さないように。彼女にとってのヒーローがもう一人で苦しまずにすむように。
自身の胸にしがみつき、震えながらすすり泣く少女を見下ろした龍也は、そっとその小さな体を抱きしめる。
もう二度と離さないように。彼にとっての宝物がもうこれ以上傷つかずにすむように。
雲の切れ間から差し込む夕陽だけが、そんな二人を照らしていた。
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