第八章 覚醒⑤
「先ほどの交錯、自分の方が早かったはずだと考えているのだろう?残念だったな、あの詠唱はブラフだ。本来の術式は貴様がルービックの壁を破壊したタイミングで完成していた。ルービックを無理やり突破するために貴様自身が魔力を解き放ち、私への注意が逸れるその一瞬を狙ったというわけだ」
デモニアの少年を自身の持つ術式の中で最高の拘束能力を誇る水牢に閉じ込めることに成功したセロスは、傲岸不遜な態度とは裏腹に、内心胸をなで下ろしていた。
(なんとか上手くいったか。まさかこの術式を人間相手に使う日が来るとはな……)
偽の詠唱を唱えながら、少年の注意がルービックに逸れた一瞬を突いて彼の背後の雨水を利用し術式を発動させる。そこまでの綱渡りが必要だと彼に判断させるほど、このデモニアの少年の強さは圧倒的だった。
(デモニアの扱える魔力量は悪魔との契約年数が伸びるごとに多くなっていくと聞く。こいつと戦うのが一年、いや、あと半年遅ければ私は……)
セロスは慌てて嫌な想像を振り払う。
かつての同僚、そして今回自分が捕縛を命じられた裏切り者の方をちらりと見やる。未だルービック達の包囲網を抜けられずにいるフィリアは、焦った様子で光弾をばらまいていた。
彼女とてこの結界の恩恵は受けているはずだが、それはルービック達も同じ。相対的な能力差はほとんど変わっていない。
(ふん、やはりいくら学院内で優秀な成績を収めていようと、いざ実戦の舞台に立てばそんなものか。がっかりさせてくれる)
冷めた目でフィリアの様子を確認していたセロスが改めてデモニアの少年に視線を戻すと、彼の未だ闘志に燃えた瞳と目が合った。
「……そろそろ息が切れる頃合いかと思ったが、存外しぶといな。もう貴様にその檻から抜け出す方法は無い。いい加減敗北を認めて楽になったらどうだ?」
本当ならば、こんないつ何をしでかすか分からないような危険物にはさっさととどめを刺してしまいたいところなのだが、セロスは今、全ての聖気の制御力を彼を捕らえている水牢に費やしている。先ほど身を以て体感したこの少年の人間離れした魔力量をもってすれば、セロスが少しでも出力を落としたが最後、拘束を無理やり突破してくる可能性もある。
(こちらが常に結界内の空気から聖気を補充できるのに対して、奴は息もできず、少しでも身体保護を疎かにすればたちまち身体を焼き焦がされる死の空間に閉じ込められている。ここからの行動は全て蛇足。私はただこの少年が力尽きるのを警戒心を解かずに待ち続ければいい)
「確かに貴様の尋常ならざる魔力量には驚いた。だが、どれだけ個体としての実力が高かろうと、貴様は所詮力が強いだけの獣。私のような知恵と策略を使いこなす者の前では、ただの獲物に過ぎないのだよ」
少しでも少年の魔力切れを早められたら儲けものと、挑発を繰り返していたセロスは、少年の様子が急変したことに気付いた。
先ほどまでセロスの発言にほとんど反応を示さなかった少年が、あらぬ方を見て焦りの表情を浮かべている。
彼の視線をたどったセロスの視界入ったのは、嵐の中、必死の形相でこちらに近づいてくる金髪の少女。
「……なんだあの人間、何故この結界内で動けている?」
この結界内の聖気濃度はすでに異界級。デモニアでもないただの人間が立ち入れば、一瞬たりとて意識を保つことは難しいはずだ。
(……まあ、魔力に適性のある人間がいるのだから、聖気に適性のある人間がいたとしてもおかしくはないが。だが、あいつは一体何をしにここへ?この少年を助けにきたのか?この状況、多少聖気に耐性を持つ程度の人間にどうにかできるわけもない。しかし──)
「……ふむ、目障りだが私は今手が離せない。ルービックに片付けさせるか」
今回動員しているルービックに関しては、全ての権限をセロスが掌握している。脳内で指示を出すと、ゲートから一定ペースで出現し続けていたルービックのうちの一体が群れから離れ少女の元に向かっていく。
(これでよし。もしあいつに何らかの戦闘能力があったとしても、追加のルービックを差し向ければ時間は稼げるはず。今はこのデモニアを排除するのが最優先────っ!?)
急激な魔力の励起を感知し、慌てて視線をデモニアの少年に戻したセロスは、そこで信じられないものを目撃する。
(なっ……!?放出した魔力で聖水を無害化し、脱出しようとしているのか──っ!?)
今まで自らの身体を保護するための最低限の魔力しか展開していなかった少年が、突如として放出し始めた空恐ろしいほど膨大な魔力で、水牢からの脱出を試み始めたのだ。
少年の身体を包む魔力が、あまりの密度に紅蓮の炎という形で結晶化していく。
「ば、馬鹿な……っ!?この超高濃度の聖水をもってしても中和しきれないだと……っ!?」
この聖水による水牢は、天使最大の仇敵、悪魔との戦闘の際に聖水による浄化で魔力による反撃を封じつつ、そのまま溺れさせることで敵を滅することを目的とした術式だ。
魔力と正反対の性質を持つ聖気の塊である聖水の中に囚われた者が、魔力を使用することなど本来なら不可能なはずだ。
その条理を覆しているのが、あの少年の持つ異様なまでの魔力出力。
この水牢による拘束から抜け出せた者など、セロスはついぞ聞いたことがない。
炎と聖水がせめぎ合い、水球に激しい波紋が生まれる。少年の身体からとめどなく溢れ続ける魔力によって中和された聖水が消し飛ばされ、徐々に水球の体積が減少していく。
「おのれ、小癪な……!だが、単純な聖気と魔力のぶつかり合いなら、地の利を得ている私に敗北は無い!」
セロスが短い聖句を唱えると、空気中の聖気が彼の肉体を経由して水球の中に吸い込まれていく。
(──なんて凄まじい魔力だ……!少しでも気を抜けば持っていかれる……!)
少年の炎によって蒸発させられる水量と、セロスが新たに生成し続けている水量はほぼ同量。
しかし、少年の放出する魔力は徐々に徐々に勢いを弱めていく。
(そ、そうだ。外部から聖気を補給できる私に、自分自身からしか魔力を絞り出せない奴が張り合えるはずがなかったのだ……!ふん、どうせ今のが、力尽きる前の最後のあがきだったのだろう。諦めの悪い奴め)
少年の放つ魔力がみるみるうちに減衰していくのと同時に、彼の目からも生気が抜け落ちてていく。
(……どうやら呼吸の限界も同時に来たようだな。よし、奴の魔力反応が完全に消えたらフィリアを始末し、それから──)
瞬間、今までの人生で一度も感じたことがない程の、圧倒的な悪寒がセロスの身体を襲った。
「──な、何だ!?」
プレッシャーの発生源は眼前のデモニアの少年。
纏っていた炎もほぼ消えかけ、酸欠により半ば気絶しているような状態だった少年の身体の内側で、異質な魔力が膨れ上がった。
(な、何だ、あの魔力は!?先ほどまでと明らかに違う────)
「────う、あ、あぁ、あああああああああアアアアアアァァァァッ!!」
魔力の
(く、黒の魔力だと──!?)
新たに少年の身体から湧き出した未知の魔力に、セロスは目を見張らせた。
魔力の色というのは、異能者、または契約している悪魔の属性や生来の気質によって決定される。何かをきっかけに魔力の色が変わることもないことはないが、ここまで急激な変化は本来ならあり得ないはずだ。
(あ、あり得ない!数多の魔力色あれど、漆黒の魔力を纏う悪魔など、それこそ伝承の────)
「────アアアアアアァァァァッ!!」
少年の苦悶とも歓喜とも取れぬ咆哮に、セロスの肩がびくりと震えた。
少年の内から溢れ出す漆黒の魔力が勢いを増すごとに、彼を包む聖水が先ほどまでとは比較にならないペースで消滅していく。
「く、くそお!何がどうなっている!?」
セロスが必死に聖水に聖気を注ぎ込むが、まるで焼け石に水、聖水の減少は止まることを知らない。
そして、ついに。
「…………そんな。ば、馬鹿な……っ!?」
大質量の聖水を一欠片も残さず消滅させてしまった化け物を前に、セロスの足が勝手に震え出す。
「────アァ」
「ひ、ひぃ!?」
少年がセロスに目を向けたのは一瞬。少年の視線は彼を素通りし、地上に立ち、呆然とこちらを見上げる少女、そしてそのすぐ近くで彼女に狙いを定めていたルービックに向けられる。
「────」
無言でルービックに向けられる右腕。彼の人差し指から放たれた雨粒ほどの魔力弾は、次の瞬間、少女のそばにいたルービックを跡形もなく消し飛ばしていた。
「────ぅ、うわああああぁぁぁっ!!」
自身から視線が外れた一瞬の隙をついて、セロスが決死の特攻をかける。
──対象の周囲の雨粒を聖気で強化し、散弾銃のごとく全方位から攻撃する術式。──大気を圧縮し、鎌鼬のような風の刃を生成する術式。──地上に溜まった大量の雨水を利用し、打撃や斬撃の通用しない遠隔式の式神を生成する術式。
ペース配分を無視した大盤振る舞いな攻撃が、その場を動こうとしない少年に雪崩のように襲いかかる。
しかし。
「──────アァ」
「────なっ!?」
まさに鎧袖一触。
セロスが放った渾身の術式達は、まとわりつく羽虫を払うかのような彼の軽い腕の一振りで全て塵と消えた。
(何だ、一体こいつは何なんだ。圧倒的な魔力量と高い技能に物を言わせていた先ほどまでとは毛色が、いや、次元が違う。ほ、本当に同一人物なのか……っ!?)
セロスの攻撃は、少年に傷一つつけることはできなかったが、彼の注意を引くことにだけは成功していた。
「ひ、ひぃ!?く、来るな!来るなああぁぁ──────っ!?」
──気付いた瞬間には、全てが終わっていた。
身体から一気に力が抜けていく感覚。視線を下げると、自身の胸に直径二十センチ程の風穴が空けられているのが分かる。
いつの間にか彼の正面から背後に移動していた少年の手に握られているのは、握り拳程の大きさの正十六面体。
「────あ。あぁ────」
──バキリ。核を砕かれたセロスの体が、この世界との繋がりを断たれ、急速に崩壊を始めていく。
痛みは無い。すでにそんなものを感じる余裕すらも残っていないのだから。
(────私は、負け、たのか────)
人間ごときに負けた悔しさやこれからの自分に待つ裁定への恐怖よりも、もうこの化け物と相対しなくてもいいという安堵の方が大きかった。
しかし、地上に落下したセロスの視界に、付近に墜落してきた彼になど目もくれず、漆黒の魔力を纏ったまま空中に佇んでいる少年を不安げな表情で見上げる金髪の少女が入った瞬間、彼の心にわずかな怒りが芽生えた。
(……そうだ。全てが狂い始めたきっかけはこの女が現れたことだ。結局、何のために結界内に侵入してきたのかも分からずじまいだったが、どうやらあいつと親しい間柄らしい。仮にこの状況を作った元凶がこの女ではなかったとしても、あの少年への嫌がらせになれば十分だ。では、ここは一つ──)
八つ当たりだろうと知ったことではない。どうせ自分はあと数十秒で消滅するのだ。
そんなヤケクソ気味な思考の元、セロスは震える右腕を持ち上げ、彼女に照準を合わせる。
「────っ!?アリサ、危ない────!!」
セロスの統制下から外れ弱体化したルービックの群れを何とか殲滅することに成功し、疲弊した顔でこちらに近づいてきていたフィリアが状況にいち早く気付き、血相を変えて叫ぶ。
(ふん、もう遅い)
すでに核を失いこの世界との繋がりを失っているセロスには、空気中に溢れている聖気に干渉することはできない。消滅しかかっている全身からかき集めたなけなしの聖気を掌に集め、光弾として発射する。
威力も速度も、最早見る影もない。しかし、何の力も持たない人間一人にはそれで十分だった。
バシュッという間の抜けた音と共に、少女の肩に着弾した光弾は彼女の皮膚を突き破り、肉と骨をゴッソリと消し飛ばした。頚動脈が損傷したのか、華奢な少女の体に詰まっていたとは思えないほどの大量の血液が周囲に撒き散らされる。
「──────ぁ」
霞む視界の中、力無く崩れ落ちた少女をセロスは冷めた感情のまま眺める。
(……何だ、もっと気持ちがいいものかと思ったのに)
今の一撃で体内の聖気が尽きたのか、彼の体の崩壊度が一定ラインを超えた。
意識が白く塗りつぶされ、彼は粒子となって消えていった。
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