第八章 覚醒③


 ────走る、走る。


 打ちつける風雨によってあっという間にずぶ濡れになった衣服が容赦なく体温を奪い去っていくが、胸の内から生まれ、体全体に伝播していく熱に浮かされたアリサはそんなことは気にも留めない。


 彼女の脳内にあるのは、先ほどテレビに映された水の檻に囚われてぐったりとしている龍也の姿だけ。昨晩交わされたフィリアとの密約も、そもそも結界内では普通の人間は行動できないといった前提条件ですら、今のアリサの頭からはすっぽ抜けている。


 今更自分が行ったところで何になる?どうせ無駄死するだけだ。その行動はただの自己満足、「龍也のためにがむしゃらに行動している自分」に酔っているだけ。


 ──うるさい。うるさいうるさいうるさい!!


 己自身の弱い心を踏み潰すように、アスファルトを蹴る足に力を込める。


 中継映像を見ていた時に、本能的に感じ取った。このままでは龍也とはもう二度と会えなくなると。


 ──嫌だ、そんなのは耐えられない。


 結局のところ、今のアリサを突き動かしているのはその程度の幼稚な我儘。今までずっと当たり前のようにそばにいてくれた少年と離れ離れになることに怯えているだけ。


 無我夢中で走った先に見えてきたのは、昨晩龍也と別れた結界の境界線。


 ──絶対、無事に帰ってきて。


 フラッシュバックするのは、昨晩彼女が龍也に押し付けた身勝手な願い。


 彼だって怖いはずなのに。彼が戦っているのは、後ろに自分の身も守れない弱い私がいるからなのに。それなのに、私は彼が死ぬどころか傷つくことさえ許せない。


 弱いくせに強欲。臆病なくせに傲慢。


 しかし、そんな自分にもチャンスが降って湧いた。かつて閉ざされた、彼の隣に並び立つ未来への道。弱い自分を変える、そんなチャンスを掴むためなら自身の命なんて安いものだ。


(リュー君が一人じゃ帰ってこれないのなら、私が迎えにいく──!)


 昨晩龍也と別れた場所を躊躇いなく走り抜ける。


 途端に、空気が変わった。標高の高い山の上にいるかのように、呼吸をしてもうまく酸素が取り込めない。


(……息が苦しい。でも、意識はまだはっきりしてる。タイムリミットは分からないけど、私はまだ動ける!)


 息苦しさとは別の動きにくさを感じたアリサが視線を下に落とすと、いつの間にか彼女の体は膝上のあたりまで水に浸かっていた。水に浸かっている足が重い日焼けをした時のようにヒリヒリと痛む。


 結界内に侵入したことでより一層雨足が強まり、視界はすこぶる悪い。それでも、空に佇む一人の天使と巨大な水球、それらの位置を把握することはさほど難しくはなかった。


 彼ら二人からやや離れた空域で、縦横無尽に空を舞いながらルービックの群体を薙ぎ払っているフィリアの姿も視界に入った。彼女は自身に羽虫のように群がるルービックたちを一切寄せ付けていないが、代わりに虚空に開いたゲートから湧き出し続けるルービックに進路を阻まれ、龍也の救援には向かえないようだ。


 結界内の空に数え切れないほど浮遊しているルービックたちは、地上を進むアリサには一切注意を払わない。彼らは視覚や聴覚といった五感ではなく、魔力や聖気といった異能の存在を感知するセンサーで敵を識別しているらしい。異能の力を扱えるかどうかとは関係なく、生きとし生けるものは全てごく微量の魔力を保持しているというが、悪魔憑きである龍也や天使であるフィリアが存在しているこの空間内においては、ルービックたちにはアリサのことなど路傍の石と同じようにしか感じ取れないのだろう。


 これ幸いと、アリサはざぶざぶと水をかき分けながら龍也の元に進んでいく。


 この期に及んでも、龍也と彼と相対する天使、彼らの近くまで接近した後に自分がどう行動するべきなのか、具体的なプランは何一つ彼女の脳内には浮かんでいなかった。


 ぼんやりと、自分が天使の気を少しでも引くことができれば龍也があの拘束から抜け出す隙を作り出せるのではないか、などと考えてみる。


(上手くいかなかったらその時はその時だ。どうせリュー君のいない世界で生きていくつもりなんて元からなかったんだし)


 彼らの真下からやや離れた地点、嵐の中とはいえ声を張り上げれば十分彼らの耳に届くであろう距離まで接近することに成功したアリサが、顔を上げて大きく息を吸い込んだ瞬間。


 ──水牢に囚われ苦悶の表情を浮かべていた龍也と、目が合った。


「────ぁ」


 こんな状況だというのに、真っ先に自分の存在に気付いてくれた龍也への愛しさが彼女の胸の内で溢れ出す。


 喉の震えを上手く声として変換できない。


 ただ、視線だけが絡み合う。


 永遠のような一瞬の後、虚ろだった龍也の瞳に再び意志の炎が灯ったのを、アリサは確かに感じ取った。


 無謀にも戦地に飛び込んできたアリサを助けようと奮い立ったのかもしれない。理由はなんでもいい。折れかけていた龍也の心を立て直せたのなら、それだけで自分の命の対価としては十分すぎるくらいだ。


 彼と相対していたリーダー格の天使が指示を出したのだろうか。一体のルービックが群れから離れ、アリサのいる場所に向かって一直線に進んでくる。


 最下級の位階であるとはいえ、超常の存在であるルービックに対抗できる手段をアリサが持ち得ているはずもなく。


 彼女にできるのは、ただ黙って己に死をもたらす存在を待ち構えることだけ。


(足場がこんな状況じゃ、細い路地裏を逃げ回って時間を稼ぐこともできなさそうだし……。ルービックが撃つあのレーザーみたいな光線、やっぱり当たると痛いのかな)


 一周回って恐怖や焦りが消え、ぼんやりとそんなことを考えていた手持ち無沙汰なアリサは、せめて最期に好きな人の姿を胸に刻み込もうと上空を見上げる。


 しかし、そこで彼女の目に映ったのは。


「────何、あれ?」

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