第八章 覚醒②
(…………ぅ)
龍也が失神から回復し瞼を開けると、まず最初に感じたのは視界の違和感だった。
(……やられたな)
龍也は素早く状況を確認する。
おそらく自分が意識を失っていたのは数秒程度。そして、その間に起きた最大の変化点。それは彼の全身が水の中に沈んでいること。
視線を下に向けると屈折して見えにくいものの、先ほどまでの戦闘の時と同じように住宅地の屋根が見える。
つまり、彼がいるのは先ほどまでとほとんど同じ高さの空中。
(あいつの得意術式は水属性と風属性って、フィリアが言ってたか)
意識を失う直前に見えたあの黒い影。あれは結界内の地上に大量に溜まっていた、昨日から降り続けていた聖気を含んだ雨水だろう。その一部が局所的に津波のように盛り上がり、上空十五メートルほどの高さにいた龍也を飲み込んだのだ。おそらく大質量の水に全身が打ち付けられた際の衝撃で一時的に気絶してしまったのだろう。
不幸中の幸いだが、意識を失う直前、龍也は咄嗟に息を吸い込み肺の中に空気を溜め込んでいた。故にすぐさま窒息してしまうことはないが、ここから脱出できなければ辿る結末は同じだ。
(……保って三分ってところか)
普段なら龍也の強靭な肺は十分以上の潜水を可能にするが、それはあくまでも水中でじっとしている時の話だ。この後の展開が予想できない以上、タイムリミットは短めに設定しておいた方がいい。
試しに手足を軽く動かして水を掻いてみるが、一向に体の位置が変動する気配は無い。
(多分この水はあいつに完全に掌握されてる。そりゃ出してくれるわけもねえか)
そして、先ほどから気になっていた体の痛み。体の内側ではなく外側。セロスの操る水に触れている体の表面が、ズキズキと火傷を負った時の様な痛みを発している。
「────何故、と疑問に思っているのではないか?」
胸についた浅い傷を癒しながら勝ち誇った顔で近づいてきたセロスを、龍也は無言で睨みつけた。
「冥土の土産だ。順を追って説明してやろう」
単純に体を動かすだけではここからは抜け出せない。そう悟った龍也は一度動きを止め、セロスのご高説を聞いているふりをしながら思考を潜らせていく。
「今貴様を拘束しているその水は、私が事前に結界の中で用意していた聖気を大量に含んだ雨水だ。その聖水による拘束には先ほどまで広域に広げていた私の聖気の制御力を全て注ぎ込んでいる。いくら貴様が並外れた強さを持つデモニアとはいえ、振り払うことなど不可能だ」
先ほどから感じていた痛みの正体を悟った龍也が忌々しそうに顔を歪めた。
この水球はその外側で展開されている結界の数十倍の聖気濃度を誇るまさしく絶望の檻。聖気に適性を持たない者が一度そこに囚われれば最後、超高濃度の聖水によって一瞬で骨の髄まで溶かし尽くされてしまうだろう。
気絶していた間も無意識的に魔力による身体保護を維持できていたのは僥倖だった。長年の修練と繰り返してきた実戦によって体に刻み込まれた無意識下での魔力制御が無ければ、すでに龍也の敗北は決まってしまっていただろう。
横目でフィリアの方を窺うと、こちらの窮地には気付いているものの、彼女は先ほどまでと同じくルービックの群れにまとわりつかれ、ほとんどその場を動けない状態が続いていた。
空中に開いたゲートからまばらに、しかし止まることなく出現してくるルービック達は、臨界するなりフィリアに狙いを定め一目散に彼女の元に向かっていく。
(こいつも馬鹿じゃねえし、フィリアが俺の救援に来られないように今はルービックを使って妨害に徹しさせてるみたいだな。元々俺を始末してからフィリアの相手をするつもりだったみたいだし)
心の中で舌打ちをした龍也は、彼女をあてにする考えを切り捨て、自力で脱出する方法を模索し始めた。
「先ほどの交錯、自分の方が早かったはずだと考えているのだろう?残念だったな、あの詠唱はブラフだ。本来の術式は貴様がルービックの壁を破壊したタイミングで既に完成していた。ルービックを無理やり突破するために貴様が魔力を解き放ち、私への注意が逸れるその一瞬を狙ったというわけだ」
龍也が試しに右手に魔力を集中させると、手のひらに灯った小さな炎は周囲の水によって瞬く間に掻き消されてしまう。
(やっぱこのアホみたいな聖気濃度の中じゃ、体外に出した魔力はあっという間に中和されちまうな。ただでさえ天使に有利なこのステージで、正面きっての魔力量勝負は流石に分が悪いか)
セロスの全制御力が注ぎ込まれているというこの水牢を魔力によるゴリ押しで破るということは、セロスの操る聖気量と龍也の操る魔力量、その二つのどちらが多いかという地力勝負になることを意味している。
(……今身体防御に回している魔力も使えば、多分この拘束は突破できる。だが──)
龍也が勝利するための条件は二つ。肺に溜めた酸素が尽きる前にこの水牢から抜け出すこと。そして、その後セロスの胸の天核に修復不可能なダメージを与えること。
すでに龍也は聖水から身体を守るために魔力の半分以上を身体保護に回している。防御無視で拘束を突破した場合、手持ちの魔力を全て使い尽くした龍也は数秒間身動きがとれなくなってしまう可能性が高い。しかも、一瞬とはいえ超高濃度の聖水に触れるのだから無視できないダメージを負うこともほぼ確実だ。
そんな状態では脱出直後にセロスに奇襲をかけることも不可能だし、彼に一度態勢を立て直され長期戦に持ち込まれてしまえば、龍也の勝ちの目はほぼ潰えると言っていい。
(────クソッ!どうすればいい!?)
すでに肺に残っている酸素は半分ほど。もうあまり考えている余裕も無い。
迫るタイムリミットと全身を灼く痛みが、冷静な思考力を奪い去っていく。
「……そろそろ息が切れる頃合いかと思ったが、存外しぶといな。もう貴様にその檻から抜け出す方法は無い。いい加減敗北を認めて楽になったらどうだ?」
龍也を水球の中に閉じ込めておくことに、余力の全てを注ぎ込んでいるためだろう。セロスは龍也に対して得意げに語りかけるばかりで、追加の攻撃を仕掛けてくる気配を見せない。
セロスからすれば、龍也をいたぶったりとどめを刺したりするために拘束を緩めることこそが最大の負け筋。彼はただ全力で龍也を拘束し続け、息、または魔力が尽きるのを待つだけでいい。
「確かに貴様の尋常ならざる魔力量には驚いた。だが、どれだけ個体としての実力が高かろうと、貴様は所詮力が強いだけの獣。私のような知恵と策略を使いこなす者の前では、ただの獲物に過ぎないのだよ」
すでに勝利を確信し、余裕の笑みを見せるセロス。
(……だめだ、何も思いつかねえ。このままここで野垂れ死ぬくらいなら、いっそ相打ち覚悟で──)
追い詰められた龍也がそんな覚悟を決めかけた時、今まで彼のピンチを傍観していたジークが声を上げる。
(──おい、龍也。あそこを見てみろ。ククク、俺の目がイカれたわけじゃなければ、ありゃあ──)
龍也は酸欠で朦朧としたまま、言われるがままに視線を落とす。
(────っ!?)
最初は、酸素不足によって絶体絶命の危機に追い詰められた脳が見せた幻覚かと思った。だが違う。彼の魂が、あれを幻覚でも偽物でもない正真正銘の本物だと断言する。
たとえ五感の全てを失ったとしても、彼があの少女の存在を認識できなくなることなどあり得ない。
(────アリサ、どうしてお前がここにいる!?)
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