第六章 決戦前夜④


 午後十一時。住民が消え、降り止まない雨の音だけが響く住宅街の中、アリサを結界の外に送り出した龍也は彼女の部屋の中で一人、目を閉じて瞑想に耽っていた。


 体内で生成した魔力を体全体に馴染ませるようにゆっくりと巡らせていく。魔力制御の訓練と、魔力が体に与える負荷に慣れ戦闘可能時間を引き延ばすことを目的として行われるこの鍛錬は、七年前から続く龍也の日課であり、心を落ち着かせるためのルーティーンでもあった。


 リビングでも空き部屋でも構わなかったはずなのに、彼が無意識的にとはいえこの部屋を選んだのは、先ほど別れた幼馴染の残滓を少しでも感じていたかったからか。


(……明日の戦闘を何事もなく切り抜けられれば、数日後にはアリサとも離れ離れか)


 ──リュー君のバカッ!私がいなきゃ、何もできないくせに!!──


 ──嬢ちゃんをここに残して戦場に向かえば、お前は間違いなく壊れる──


 ──迷ったら、自分の心に従え。その選択は、本当にお前が望んでいるものなのか?──


 投げかけられた様々な言葉が脳裏をよぎる。


(……クソッ)


 コンコン。扉を叩く音。

 現在結界内にいるのは龍也の他には一人だけだ。


「入っていいぞ」


 扉を開け顔を覗かせたフィリアの姿に、龍也は思わず眉を顰めた。


「……なんでおまえそんなにびしょ濡れなんだ?」


 服を着たまま湯船にでも浸かったのかというくらい全身に水を含んだ状態で部屋に入ってきたフィリアは、


「体力を回復させるために雨に打たれていました。あなたはゲートが開く直前まで外に出ないほうがいいですよ。すでに人間にとっては有害な濃度まで上昇しています」


「……ああ。そうだな」


 龍也も表面上は普段と同じ様子を装っているが、すでに室内にいても標高の高い山の上にいるかのような息苦しさを味わっている始末だ。明日の夕方、聖気濃度が最も高まった状態を想像するだけで憂鬱になってくる。


「……隣、座っても?」


「勝手にしろ。あと、濡れた床は後で乾かしとけよ。アリサに文句言われたくはないからな」


 アリサの時と違い、雨に濡れたことで彼女の肌にぴったりと張り付きその彫像のように美しいボディラインを浮き彫りにさせている白いトーガや、髪を張り付かせ色っぽく上気したフィリアの顔にも、ほとんど興味を惹かれた様子のない龍也が無愛想に答えた。


 口の中で短い詠唱を唱え、体や服に染み込んだ水分を一瞬で蒸発させたフィリアが、龍也の隣、二メートルほど間隔を開けた位置に座る。


「……その様子だと、調子は随分回復してるみたいだな」


 気軽に術式を発動させたフィリアを見て、龍也がそう呟く。


「ええ、このペースで大気の聖気濃度が上昇していけば、明日の夕方にはほぼ本調子に戻っているかと」


「そうか。……それで、何の用だ?」


「一度、あなたと二人で話をしたいと考えていました。今がベストなタイミングかと思いまして」


 龍也からすれば彼女と話すことなどほとんど無いわけだが、仮にも明日は背中を預けるかもしれない相手だ。どうせ他の話し相手もいないことだし、少しくらい付き合ってやるかと、龍也は適当に相槌を打った。


「手短に頼むぞ。明日に備えて早めに寝ようと思っていたところだからな」


「ええ。私もあなたと語り合う話題など、それほど多くは持ち合わせていません。聞きたいのは、アリサのことです」


「……あいつがどうかしたか?」


 龍也の声のトーンが一つ下がる。


「昼間、アリサに彼女から見たあなたのことを聞きました。逆に、あなたから見たアリサはどんな人間なのか、ふと聞いてみたくなりまして」


 奇妙な質問だ。そんなことを聞いてどうするというのか。そんな疑問が脳裏をよぎったが、口に出して話すことで自身の感情を整理できるかもしれない、そう思いついた龍也はゆっくりと口を開いた。


「……別に。ただの幼馴染だ」


「アリサはあなたのことを特別な存在だと言っていました。あなたにとってアリサは特別ですか?」


「それは…………」


 咄嗟に当たり障りのない回答が出かかるが、すんでのところで引っ込めることに成功する。


 今なら周囲の誰にも聞かれる心配はないのだから取り繕う必要はない。聞いているのは人間の心理など理解できているのかも曖昧な天使一人だけ。迫る決戦に備えて、心にわだかまる思いをすっきりさせることが最優先だと、鋼の意思で羞恥心を押さえつける。


「……ああ。あいつは俺にとっても特別だよ」


 一度こぼれ出した想いは、もう簡単には止まらなかった。


「泣き虫で、臆病で、そのくせ他人のためにどこまでも頑張れる、誰よりも強い心を持った奴。あいつが側で支えてくれていたからこそ、俺はここまでやってこれた。あんなに器量が良くて誰からも好かれるような奴が、どうして俺なんかの側にいてくれるのかって、時々不思議に思っちまうくらい、俺にとってのあいつは自慢の幼馴染だよ」


 眩しいものを見るかのように目を細める龍也。そんな彼を横目に、フィリアはポツリと呟く。


「あなたは、アリサのことが好き、なのですか?」


 龍也は彼女の言う「好き」の意味を履き違えるほど、鈍感でも読解力の無い人間でもなかった。そして、彼はこの場では自身の感情に嘘をつかないと決めたばかりでもあった。


 ──それでも。


「……よく、分からないんだ。俺の、アリサへのこの気持ちが、恋愛感情としての好きってやつなのか」


 龍也は今まで誰にも、それこそアリサにも言わずにいた、己の心の歪さを初めて他人に打ち明けていく。


「物心ついた時から、自分が何か欠けた存在だっていう自覚があった。普通の人なら当たり前に持ってるはずの何かが最初から欠落してるって。……今までの十五年間で、俺はアリサ以外の人間に執着心を持つことができなかった。母親、祖父、姉弟子、知り合い連中、慣れ親しんだ人たちも、どこか遠い存在、所詮自分とは関係ない赤の他人だっていう感覚がどうしても拭いきれなかった」


 フィリアは黙って龍也の独白に耳を傾けている。


「七年前、このままじゃ二人とも死ぬっていう状況になって、初めて俺は怖いと感じた。自分が死ぬことよりも、アリサが死んじゃうんじゃないかって想像するほうがずっと怖かった。──だから、俺は逃げた。もしかしたら、俺の行動次第ではあの時天使に殺された人をもっと少なくできたかもしれない。でも、俺にとっては俺とアリサ以外の人間なんてどうでもよかった。とにかく二人で生き残ることだけが重要だった」


 龍也は遠い昔を思い出すかのように目を細める。


「あいつが傷つくのを見たくない。あいつが泣いているのを見たくない。あいつの側にいると無性に落ち着く。あいつが笑っているとなんだか気分が良くなる。……物心がついた時から自然と俺の内にあったアリサへの執着心、普通はこれを愛だとか恋だとかって呼ぶことを知っても、あんまりピンとこなかった。アリサ以外の人間との間で、家族愛や友情ってやつを感じたことのない俺には、それと比較するものが無かったからな」


 龍也は一度言葉を切り、自身の感情を探るようにまたゆっくりと話し始めた。


「……昨日、土御門から俺自身が天使を引き寄せてるって聞いて、正直ショックだった。強くなってアリサのことを守れるようになったと思っていたのに、俺さえいなければそもそもあいつは守られる必要すら無かったんだって。だから、俺がアリサから離れればあいつはもう安全だって、何も心配せずに笑っていられるはずだってそう考えた。……でも」


「……でも?」


 フィリアが静かに先を促す。


「……でも、あいつを守りたい、危険な目に遭わせたくないって思うのと同時に、俺は、あいつと離れたくない、もっと一緒にいたいとも思うんだ」


 それは、龍也の心の奥底に眠っていた彼の本音。


「……この二つの望みは同時には叶わない。だから俺はアリサと離れたくないっていう思いを無意識のうちに抑え込んでいたんだと思う。それは俺の我儘、エゴでしかないんだからって自分に言い聞かせて」


 龍厳や真唯に指摘されて、ようやく気づいた自分の本心。


 言葉にして口に出したことで、ようやく龍也にも自分が何を迷っていたのか、その輪郭を掴むことができた。


「…………話してくれて、ありがとうございました」


 立ち上がり、何かを思案するような顔をしたまま部屋を出て行こうとしたフィリアを、直前で龍也が呼び止める。


「フィリア」


「……なんでしょうか」


「…………お前のおかげで少しすっきりした。ありがとな」


 フィリアは驚いた顔で振り返り、


「……初めてあなたに感謝された気がします」


「初めてお前に感謝したからな」


 いつも通りの適当な返事を返した龍也に、フィリアは微笑みを浮かべる。


「私は直前まで雨を浴びて聖気を補充しておきます。あなたもできる限りコンディションを整えておいてください」


「ああ、言われなくても分かってるよ」


 夜が更けていく中、別れた二人はそれぞれ思索に耽る。奇しくも同じ少女のことを脳裏に浮かべながら。

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