第六章 決戦前夜①
「あ、お母さんまだシェルターから戻ってきてないみたい。二人とも上がって上がって」
突然の天使襲撃をやり過ごし、ひとまず天壌家に避難してきた龍也とフィリア。
雨の中空を飛んできた龍也は言うまでもなく、アリサも先程の騒動でびっしょりと全身を濡らしてしまっている。
「フィリアも結構濡れちゃってるね。天使って体温の低下で風邪ひいたりするの?」
「今の私はあなた達のように生身の肉体を持っているわけではないので、飢えや寒さは感じません。もちろん、受肉した状態なら話は別ですが」
フィリアのことなど露ほども気にしていない龍也が、服をびっしょりと濡らしたアリサを見て、
「アリサ、とりあえずお前はシャワーを────」
急に黙り込んだ彼を見てアリサは不思議そうに尋ねた。
「?リュー君、どうしたの?」
龍也は少し慌てて、目線をわずかにずらす。
「い、いや、なんでもない。風邪引くと大変だから、先にシャワー入ってこいよ」
「あ、うん。じゃあ、先にお風呂使わせてもらうね。二人は先に私の部屋に入ってて。あ、リュー君、濡れた服着たままだと体冷やしちゃうから、面倒臭がらずにちゃんと着替えておいてね」
「おう」
龍也は浴室に消えていったアリサを見送り、フィリアを引き連れて二階のアリサの部屋へ向かった。
「……不潔です」
部屋に入ると、先ほどのやり取りを冷ややかな目で眺めていたフィリアが、龍也に苦言を呈す。
「うるせえ。抑えるだけならまだしも、欲望の発生自体を止めるなんてことは人間にはできねえんだよ」
適当にそう返しながら鞄から無事だった服を引っ張り出し部屋着に着替えた龍也は、腰を下ろして目を閉じる。
(ジーク、見たか?)
(ああ、ばっちりとな)
普段は龍也の意識の底で眠っているはずのジークが、何故このタイミングで起きていたのかは不問とし、龍也は静かに回想タイムに入った
。
──雨に濡れたことで肌にぴったりと張り付き、形が浮き彫りになった双丘と、それを支え彩りを加える薄桃色のブラジャー。
(……大きかったな)
(前よりデカくなってたな)
(あいつ、胸もデカいけど、何よりボディラインがめちゃくちゃ綺麗なんだよな。出るとこは出てるくせにくびれもすごいし)
(あの年頃の乙女特有の、少女としての清純な輝きと女としての艶かしさが入り混じった独特の色香はやっぱりたまんねぇぜ……。ああ、食っちまいたい……!)
(お前、体無いのにどうやって食うんだよ。てか、アリサに手出したら殺す)
脳内でそんなやり取りをしていると、懐のスマホが着信を告げた。
表示された名前に龍也は顔をしかめつつも、渋々といった様子で通話に出る。
「……もしもし」
『よう龍也、今回の件の経過報告だ。そういやお前今どこにいんの?』
「ひとまずアリサの家に避難してきたところだ」
『ヒュウ、意中の女の子の家に転がり込むとは、お前も中々やるじゃねえか。ヒモの才能あるんじゃね?』
「うるさい。それで、後片付けは終わったのか?俺のいたアパートなんて笑っちまうくらい派手にぶっ壊されてたけど」
『そっちの後処理もちょうど今終わったところだ。運の良いことに今回の死傷者はゼロ。平日の昼間だったこともあって、アパートの住人は全員出払ってた。あとは周りの住宅に多少損傷が出たくらいだから、適当に金を積んどきゃどうにでもなる。毎度のことだが、迅速な対応感謝するぜ』
「……今回は相当ギリギリだった。警報が間に合わなかったことと、街中にゲートが開いたこと、そっちでは何か分かったか?」
『警報機と聖天柱、どちらにも異常はないそうだ。土御門によると、天使側がゲートに何らかの干渉を行なった可能性が高いらしい。今回は観測された聖気の量に比べて、実際のゲートの規模がかなり小さかった。その分のエネルギーを臨界地点の修正とゲート展開の時間短縮に注ぎ込んだみたいだな』
「フィリアの見解と大体一致してる。……つまり、あいつらはその気になれば聖天柱の影響を振り払って街中に突然ゲートを開けるってわけかよ」
『いや、これも土御門の受け売りだが、今回のケースはお前の存在でここら辺の霊的環境が乱れていたからこそ強行できた荒技で、普段はコストとリターンが釣り合わないからそれほど警戒しなくていいんだと』
「…………そうか」
思わず黙り込んだ龍也に、平賀が呆れた様子で、
『おいおい、この件が自分の責任だとでも思ってんなら、そりゃ自意識過剰ってもんだぜ。今回の奴らの狙いはフィリアだったんだろ?そもそも奴らがこの世界に攻めてくるのは人類を滅ぼすためなんだから、お前がいてもいなくても大勢に影響はねえよ。あんま自惚れんな』
「……うっさい、そのくらい分かってるよ。で、結界のほうは何か分かったか?」
平賀の雑な励ましのおかげか、普段の調子に戻った龍也が尋ねる。
『俺は結界だのなんだのは門外漢だからな。今土御門が調査してくれてるから、報告はもう少し待ってくれ。あと、結界の効果がわかるまでは念の為シェルターに避難している市民はそのまま待機させてる。お前も自分自身やアリサ、あとフィリアに異変が出たらすぐに連絡してくれ』
「ああ、分かった」
龍也が通話を切るのとほぼ同時に、アリサが階段を軽やかに登ってくる音が耳に入ってきた。
「お待たせー、お風呂出たよー」
「ん、ああ────って!?」
何気なく振り返った龍也の視界に飛び込んできたのは、風呂上がり特有の上気した頬に無造作に背中に流されしっとりと濡れた金髪、そしてサイズの大きいダボダボのTシャツ一枚を着ただけのアリサの姿だった。
(あれ、あのTシャツってたしか俺のじゃなかったっけ…………?)
ポカンとした顔の龍也を見たアリサは焦った様子で慌てて弁明する。
「こ、この服さっきリュー君の部屋で見つけたんだけど、最近リュー君これ着てなかったから、いらないならもらってもいいかなって思って……。も、もしかして迷惑だった?」
不安そうなアリサに、龍也は慌てて、
「そ、そんなことないぞ。全然大丈夫だ。棚にしまったまますっかり忘れてたやつだから、欲しいならやるよ」
「ほ、本当!?ありがとう、リュー君!」
(迷惑というより、むしろ目の保養になるな)
(こんな短時間に二回もあんな姿を拝めるとはなぁ、眼福、眼福)
先程よりも、さらにテンションを上げる雄二匹。
それもそのはず、今のアリサの姿は、サイズの合っていないダボダボのTシャツ一枚。襟元からは熟れた果実のような胸元が覗いているし、裾は普段彼女が履いているスカートとは比べ物にならない高さで揺れ、真っ白な太もももギリギリまで露出している。
そんな彼女の姿に一見興味なさそうな顔をしつつも、揺れ動く目線で思考がバレバレな龍也の様子を見て、風呂上がりで元々火照っていた顔をさらに赤くしたアリサはどこか満更でもなさそうな様子だったが、やはり恥ずかしくなったようで、
「も、もうお風呂空いたからリュー君も風邪引く前に入っちゃいなよ」
「──ん?あ、ああ、そうだな。じゃあ俺も入ってくるわ」
その意図を汲んだ龍也がいそいそと脱衣所に消えていくのを見送ったアリサは、浮き足立った心を落ち着けるために深く息を吸う。
「──なぜ、嫌がらないのですか?彼の邪な視線、あなたも気づいていたでしょうに」
部屋の隅で一部始終を眺めていたフィリアが、シャツを顔に近づけてクンクンと匂いを嗅いでいたアリサに不思議そうに問いかける。
「な、なんでって。……えっと、リュー君だって男の子なんだから、そ、そういうことに興味があるのは当たり前のことだし、リュー君が私でそういう気分になってくれるのはむしろ嬉しいっていうか……」
慌ててしどろもどろに返すアリサに、フィリアは真顔で首を傾げ、
「つまりあなたは、異性の欲望に塗れた視線を浴びることで興奮する性癖を持っているということですか?」
「ち、違うよ!人を変態みたいに言わないで!」
予想外の角度からの攻撃を受けたアリサは、生来の人見知りすら乗り越えて猛然と抗議する。
「そりゃ私だって、男の人から体とか顔をじろじろ見られるのは好きじゃないよ。最近はむ、胸も大きくなってきて視線を感じることも多いし。で、でも、リュー君は幼馴染だし、見られてもあんまり嫌じゃないっていうか……。と、とにかく、リュー君は特別だからいいの!」
「……やはり、人間とは不可解なものですね。我々とは明らかに違う」
アリサの抗弁を黙って聞いていたフィリアは、しばらくの沈黙の後、ポツリとそう呟いた。
「人間と違って生殖を行わない天使にとって、他者に対する情愛は長い人生を彩るスパイス程度に過ぎません。人がその身に収まりきらないほどの感情に振り回されているのを見ていると、滑稽に感じることもあれば、羨ましく思えることもあります」
「…………」
「アリサ、あなたが龍也と共に学園に向かうという未来をまだ諦めていないことは分かっています。その希望を否定するつもりはありませんが、……オススメはしません。場合によってはあなただけではなく、彼まで不幸にしてしまう危険性がある」
フィリアにそう諭されたアリサは、しばらくの沈黙の後、ポツポツと話し始めた。
「…………分かってるよ。今の私じゃ無理やりついていってもリュー君の役に立つどころか、足を引っ張ることしかできないって。本当は私だって、リュー君と肩を並べて戦えるようになりたい。……でも私には、デモニアとしての適性は無かった。一二歳の誕生日の日、一人でこっそり検査を受けに行ったの。でもダメだった。私には、ただリュー君に守られてリュー君が傷ついていくのをただ見ていることしか許されていなかった」
いつか、あの人のように龍也の隣に並び立てるようなデモニアになりたい。彼女が密かに抱えていた儚い夢。
しかし、自分にはそんな夢のスタートラインに立つ権利すら与えられてはいなかった。それが彼女にとっての初めての挫折の味だった。
「……共に前線で戦うことだけが、彼を支えるということではありません。どんなに屈強な戦士でも、後方で彼を援護する者たちがいなければその実力を十全に発揮することは出来ないのですから」
「……そうだね。私もそう考えたよ。リュー君を支えられるように、リュー君に欠けているところを補えるように、そうやって今まで頑張ってきた。でも、どれだけ能力を磨いても、今回みたいなイレギュラーが起きたら戦う力を持たない私はただの置物。もう嫌なの、リュー君が私を守るために本当なら必要の無い傷を負うのが。……でも、それと同じくらい、私はリュー君のそばにいたい。リュー君と離れたくない、そうも思ってるの」
「アリサ……」
七年もの間、彼女の心に降り積もり続けた感情を吐露するアリサに、フィリアはかける言葉を見つけられないでいた。
「……ねえ、フィリア。一つだけ、確認したいことがあるの」
「……何でしょう」
「この質問の答えにだけは、絶対に嘘をつかないって約束してくれる?」
俯かせていた顔を上げ、どこか必死さの滲んだ表情で迫ってくるアリサに、フィリアは首を横に振ることは出来なかった。
「……我が主に誓って」
彼女なりの精一杯の誠意を受け取ったアリサは頷き、その質問を口にする。
「もしかしてなんだけど────」
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