第五章 忍び寄る罠③
「…………」
「…………」
無言の時間が流れていく。
鞄に無事だった生活用品を詰め込み終わった二人は、フィリアを連れてアリサの家へと向かっていた。
フィリアは何か考え込んでいる様子で、並んで歩く龍也とアリサの後を黙ってついていくだけだ。
一つの傘の下、並んで歩く二人の距離は約二十センチ。いつもより少し遠い距離。二人の肩が冷たい雨に打たれる。
突如街中に現れた天使に襲われたショックが抜けると、浮かび上がってくるのは昨日の喧嘩別れの記憶。
(謝らなきゃ、謝らなきゃ……っ!)
龍也は自分のことを助けてくれた。まだ完全に見捨てられたわけではないはずだ。今謝れば昨日までの関係に戻れるかもしれない。
そんな願望混じりの予測を立てたアリサは、意を決して口を開く。
「リュー君、あ、あのね……」
「アリサ、昨日はごめんな」
「…………へ?」
彼女の台詞を遮るように放たれた龍也の言葉に、アリサの口から間抜けな声が漏れる。
自分から謝るシミュレーションは何度も何度も繰り返したが、彼の方から謝ってくるとは、予想だにしていなかった。
「な、なんで?リュー君は何も悪くないのに……」
龍也がアリサが学園についていくのを拒んだのは、自分の身を案じてくれたからだということは、アリサにもすぐ理解できた。
昨日の喧嘩はそんな彼の気持ちを一顧だにせず、己の願望を押し付けようとした自分に責任があると、彼女自身は考えていた。
「今日、爺さんや真唯に言われて気付いたんだ。俺は、アリサを危険な場所に連れていきたくないっていう自分の気持ちばっかり優先して、お前の気持ちのことなんて何も考えてなかったって」
「リュー君……」
彼もまた自分とほとんど同じ事を考えていたと知って、アリサの胸に熱い気持ちがこみ上げてくる。
「まあだからって、お前を学園に連れて行くかどうかは別問題なんだけど、とりあえず昨日の発言は水に流してくれると──っ!?」
龍也の言葉は最後まで続かなかった。
アリサが顔を伏せたまま、傘の柄をつかんでいた彼の左腕に抱きついたからだ。
「ちょっ、アリサ!?」
どこまでも沈み込んでいきそうな双丘の感触や、龍也より頭半分ほど低いアリサの頭から微かに漂う甘い匂いに思考がかき乱される。
「お、おい、そんなにくっついてたら歩きづらいだろ」
胸の奥から湧き上がるむず痒さを誤魔化すため、龍也はわざとぶっきらぼうに文句を言う。
「……私こそ、ごめんね。わがままばっかり言って」
せっかく引っ込んだ涙がまた溢れてしまったのを隠すために、アリサは下を向いたままポツリと呟いた。
龍也は喉元まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。それは紛れもない彼自身の本音ではあったが、彼と共に危地に赴こうというアリサの意思を再燃させかねないのではないかという不安が彼の口を縫い止める。
「…………」
龍也は口をつぐんだまま、そっと目の前にいるアリサの様子を窺う。
アリサは昨日の件について和解できたせいか、肩の荷が降りてホッとしたような表情を浮かべているが、未だその顔には陰りが残っている。
龍也はため息をつき逡巡を振り払う。先行きの見えない未来のことを憂うより、今目の前にいる幼馴染の少女の笑顔を取り戻すことの方が、彼に取ってははるかに大事だった。
「……俺は、お前が付いて行きたいって言ってくれたこと、嬉しかったよ。だから、その、そんなに落ち込むな」
不器用ながらも嘘偽りのない龍也の言葉を聞いた瞬間、俯いていたアリサの顔が跳ね上がった。
「ほ、ほんとに?」
「あ、あぁ」
「ほんとのほんとに?」
「……本当だよ」
珍しくしつこく食い下がってくるアリサに驚きながらも、龍也は平静を装ってそう答える。
「…………そっか。そっかぁ」
龍也の腕に巻きついた彼女の腕に力がこもる。まるで今にも飛び出してしまいそうな感情を押さえつけているかのように。
彼女を引き剥がすことを諦めた龍也は、アリサが落ち着くまでその場で立ち止まる。
しばらくして顔を上げたアリサは、すでにいつもの明るさを取り戻していた。
「リュー君、早く帰ってご飯食べよう!私もうお腹ペコペコだよ!」
彼女の笑顔を見た瞬間、胸の内でわだかまっていたモヤモヤがすっと晴れていくのを感じた。
「……ハハ。俺もなんだか急に腹が減ってきたよ。アリサの弁当も食い逃したしな」
「そっか、龍厳さんのところに行ってたんだもんね。わ、私を助けるために戻ってきてくれたの……?」
「ああ、なんか嫌な予感がしたから急いで戻ってきたんだ。ほんと、間に合ってよかったよ」
「そ、そっか。……えへへ」
ついさっき天使に襲われたばかりのアリサが頬を緩ませている理由が理解できず、龍也は困惑するしかない。
このタイミングでようやく龍也の腕を解放したアリサだったが、名残惜しいのか左袖をちょこんと掴んだまま、上目遣いで彼を見やる。
まあ、この程度なら歩くのに支障は無いだろうと、龍也は特に何も言わずに歩き出した。
そんな龍也の素っ気ない態度に傷つく様子も見せず、アリサはニコニコとしたまま彼の隣を歩く。
笑顔の奥で、猛烈な速度で思考を回しながら。
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