第五章 忍び寄る罠①


「…………はぁ」


 雨の中の住宅地をとぼとぼと歩くアリサは、何度目とも分からぬ溜息を吐いた。

 昨夜の無気力状態からは何とか脱することができたが、依然として気分は最悪だった。


 アリサが普段纏っている気丈なしっかり者としての仮面は、龍也が傍にいないとあっという間に剥がれ落ちてしまう。

 彼と別れてからまだ半日ほどしか経過していないが、こうして一人で歩いている今も、初めて訪れた街で迷子になったかのような心細さを味わっている始末だ。


 自分が彼に依存しすぎていることは、彼女も重々承知している。しかし、こればかりはどうしようもない。


(リュー君は今頃龍厳さんの道場か。……私も行きたかったなぁ)


 龍也が祖父の家に行く時は彼女も弁当を持って同伴するのが常だったが、今朝は彼と顔を合わせるのがあまりにも気まずかったため、妹の真唯に代行を頼んでしまった。

 彼を血の繋がった兄のように慕っている彼女が勢い勇んで家を飛び出していくのを見送った後、アリサの胸にはたちまち後悔が押し寄せてきた。


 アリサは龍也が彼の祖父の道場で剣を振っているのを眺めるのが大好きだった。

 普段は眠たげにぼんやりしていることの多い龍也が、周囲の人たちを守るために必死に汗を流している姿を見ていると、心がなんだかポカポカしてくるのだ。


 そんな彼の手助けをするためならば、朝早くに起きて弁当をつくることや、修行や戦闘でしょっちゅう傷を負ってくる彼のために怪我の治療法や応急処置の仕方を身につけることも全く苦にはならなかった。


(リュー君の好物をたくさん作っておいて、リュー君が稽古から帰ってきたらちゃんと謝って仲直りしよう。ひとまず学園の件は後回しにして、ひどいことを言ったことだけでも謝らなきゃ)


 龍也の住むオンボロアパートの前に到着したアリサは体重をかけるたびにギシギシと音を立てて軋む階段を登り、錆びついた廊下を進んでいく。


(この合鍵も、リュー君が一人暮らしを始めた時に私が散々駄々をこねて貰ったんだっけ)


 鞄から取り出した合鍵を使って玄関の扉を開けたアリサは、脱いだ靴を揃えてから居間に入る。


「こんにちは、フィリア。体調はどう?怪我はもう治った?」


 部屋の隅で壁に体を預けて座り込んでいたフィリアに声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。


「ええ、順調に。……と言いたいところですが、聖気の足りない今の私では、これ以上の聖気の流出を防ぐので手一杯です。所詮、消滅するまでの時間を引き延ばしているに過ぎません」


「そっか……。もし私にもできることがあったらなんでも言ってね」


 アリサの無理して作ったつぎはぎの笑顔に違和感を覚えたのか、フィリアは背中を向けた彼女に向かって声をかける。


「……今日は来ないと思っていました」


 昨日の今日でアリサがまたここに来るとは思っていなかったのだろう。訝しげに呟いたフィリアに、アリサは苦笑い気味に答える。


「あなたの様子を確認するのと、リュー君の夕飯を作りにね。……それと、あわよくばリュー君と仲直りできたら、なんてね」


 冗談めかして付け加えられた最後の命題こそが最大の目的だと、考えるまでもなく理解したフィリアが不思議そうに尋ねる。


「なぜそこまで、彼に固執するのですか?昨日の彼は、間違いなくあなたを拒絶していました。自らを拒絶してくる相手との関係を修復しようとするより、他の者との関係を深めるなり、新たな関係を築くなりした方が効率的なのでは?」


「…………だって、私にはリュー君しかいないもの」


 冷蔵庫の中身を確認していたアリサが振り返らずに呟く。


「……あなたには、彼以外に家族や友人といった信頼できる者はいないのですか?」


「そんなことないよ。家に帰ればお父さんにお母さん、妹の真唯もいる。みんな大好きだし信頼もしてる。……でも、やっぱりリュー君は特別」


「特別、ですか」


「……七年前の大神災の日に、私たちの住んでいた街は地図から消えたの」


「────っ!」


 やや唐突なアリサの呟きに、フィリアの喉が干上がる。


「あの日日本に開いた三つのゲートのうちの一つ、そのほぼ真下に位置する街に、当時の私たちは住んでいたの。空を裂いて現れた天使と、地を割って現れた悪魔。私みたいな普通の人間じゃ絶対に生き延びられないような地獄だった」


 あの日、日本国内でほぼ同時に現れた三つのゲートを中心とした半径数十キロ圏内の地域は、一つの例外もなく焦土と化した。


 数百万単位の行方不明者を出したこれらの地域から生還した者は、両手の指で数えられる程度しかいなかったのではないかと言われている。


「あの時、たまたま私の家族は海外に旅行に行ってて、私だけリュー君の家に預けられていたの。ゲートが開いて街中がパニックになる中、リュー君のお母さんともはぐれてしまった私達は、二人だけで生き延びる方法を探すしかなかった」


「…………」


 アリサの独白に、フィリアは口を挟むことができない。天使による人類の殺戮、それは彼女にとって同族達が犯した罪の象徴でもあったからだ。


「リュー君はその時偶然出会った竜と契約してデモニアになった。私は、リュー君がゲートを閉じてこれ以上の被害を抑えるために、現れた天使達の中の最上位個体に挑むのをただ見ていることしかできなかった。……そして、リュー君は負けた」


「……負けた?」


 すでに龍也の鬼神のような強さを身を以て思い知らされているフィリアが、意外そうに呟いた。


「正確には、最上位個体をなんとかゲートの向こうに押し返してゲートを閉じることには成功したけど、その他の天使をどうにかすることはできなかったって感じかな。文字通り死にかけの状態で戻ってきたリュー君は、私を抱えて天使の手が届かない安全なところまで逃げようとした」


 アリサは当時の惨状を思い出したのか、そっと目を伏せる。


「迫り来る天使達に怯えて逃げ惑う人達を、リュー君に抱えられて空から見下ろした時のことは今でも覚えてるよ。ああ、今私の目に映ってる人達は、みんなもうすぐ死んじゃうんだって。悪魔が出現したのは最初にゲートが発生した地域だけ。そこを突破してきた天使達に対して、当時の人類に抵抗する術は無かったからね。……結局、リュー君が力尽きて墜落した場所、その少し後ろで天使の進軍は止まった。それがここ、逸加市なの。フィリアも見たでしょう?聖天柱から見て街の反対側、どこまでも廃墟と更地が続く死の荒野を」


「……ええ」


 申し訳なさそうに俯くフィリアに、アリサは慌ててフォローを入れた。


「あ、別にあなたのことを責めてるわけじゃないよ?大神災の責任は誰か一人に向くものじゃないからね。今更責任を押し付けあったって過去は変わらないもの」


「……そう言ってもらえると助かります」


 それでもなお表情の晴れないフィリアを見て、アリサは早急に話を片付けに入る。


「と、とにかく、リュー君は私にとって命の恩人で、特別な人なの。少しは伝わったかな?」


「ええ、十分に」


 自分の発言が恥ずかしくなったのか、頬を赤くしたアリサは話題を逸らすように、


「そんなわけで、リュー君と仲直りするためにも、今日はいつもより気合を入れて料理を作ります!昔からのことわざで、男はまず胃袋を掴めっていうのがあってね──」


 そんなアリサの様子を微笑ましそうに眺めていたフィリアが、何かに気付いた様子で素早く顔を上げた。


「フィリア、どうしたの?」


「……ゲートが、開きます」


「え?でも警報も鳴ってないし──」


 彼女の台詞に呼応するかのように、街中に設置された拡声器から警報が鳴り響く。


『──緊急避難警報です。逸加市北部にて天使臨界の兆候が確認されました。周辺地域の皆様は直ちにシェルターに避難してください。繰り返します。逸加市北部にて──』


 警報の文言を注意深く聞いていたアリサがサッと顔を青ざめさせる。


「う、嘘、聖天柱のところじゃなくて市街地に直接……!?しかも、北部ってちょうどこの辺りじゃ……。と、とにかくシェルターに避難しないと──!」


「……どうやらそんな余裕は無さそうです。アリサ、私の後ろに。絶対にその位置から動かないでください」


 言われるがままにアリサが彼女の背後に移動した瞬間、窓の外、アパートから約二百メートルほど離れた上空に小さな白い点が発生した。


 白点はみるみるうちに肥大化しながら空気を裂き、数秒後には直径三メートルほどの空間の亀裂に変貌していた。


 亀裂から現れたのは人型天使三体。彼らは空中で浮遊したまま、何かを探すように辺りを見渡している。


「────っ!」


 ゲートから臨界する天使を直視したアリサの脳裏に、七年前の惨劇の情景がフラッシュバックする。


 足は震え、息は浅く不規則になっていく。


「アリサ、落ち着いてください。龍也なら既に異変に気付いてこちらに向かっているはず。それまでは私があなたを守ります」


「う、うん……」


 彼女の異変に気付いたフィリアが、宥めるような声音でアリサに話しかけた。


「聖気の規模とゲートの規模が釣り合っていません。どうやら聖天柱の影響を振り払うためにかなりのリソースを消費したようですね。そこまでのコストを払う彼らの目的はやはり──」


 辺りを見渡していた天使たちの視線が、アパートの方角、正確にはフィリアとアリサのいる方向でピタリと止まる。


「──ッ!伏せてください!」


 次の瞬間、閃光と衝撃、爆音によってアリサの視覚と聴覚が真っ白に塗りつぶされた。


 ただがむしゃらに床にへばりついて衝撃に耐える。


 数秒後、アリサがようやく回復してきた目をゆっくりと開けると、目の前には必死の形相で半透明な壁のようなものを展開しているフィリアと、上空からこちらを見つめる天使達、そして淀んだ雲に覆われた大空。


 先程の衝撃が上空の天使による攻撃によるものだったということを理解するのにさえ、混乱しているアリサには数秒の時間が必要だった。


 先程の一撃でアパートの角部屋だった龍也の部屋は半壊、壁と天井は跡形もなく消し飛ばされている。


 臨界した三体のうち、こちらに攻撃を仕掛けているのは一体だけ。残りの二体はこちらに一瞥を投げた後、まっすぐに上昇していき雨雲の中に消えていった。


 しかし、二日前の龍也との戦闘で負傷しているフィリアにとって、相手が一人とはいえ決して楽な戦いではない。


「────アリサ」


 フィリアが背後にいるアリサにしか聞こえない程度の囁き声で呼びかける。


「次の攻撃が来た直後、私が合図を出したら全速力でここから逃げてください」


「で、でも……」


「どうやら彼らの今回の目的は私だけのようです。私はもう先程のような攻撃はあと一発しか防げません。逃げて、一秒でも長く生き延びてください。龍也の帰還が間に合っても、あなたが生きていなければ意味がありません」


「そんな、自分が死ぬ前提で話を進めないでよ!」


 彼女の叫びに、フィリアは困ったように笑い、


「彼らの狙いが私である以上、私が逃げれば街への被害はさらに拡大します。……これが最善です」


 上空の天使が右の掌をこちらに向ける。その掌に生まれた白く輝く光球。


 ──再び襲いくる衝撃。身体中の聖気をかき集め、なんとかもう一度防御結界を展開することに成功したフィリアが満身創痍の状態で叫ぶ。


「──アリサ、今です!」


 しかし、背後のアリサはフィリアとも上空の天使とも違うある一点を見つめたまま動こうとしない。


「アリサ、早くしないと……っ!」


 フィリアの焦燥に満ちた声も、彼女には届かない。当然だ。先程と同様に、彼女の視覚と聴覚は閃光と爆音によって麻痺してしまっているのだから。


 では、未だ視覚の回復していない彼女は、一体何を見ているのだろうか。


「……ああ、この感じ。間違いない」


 アリサには彼のような他人の気配を感知できるような技能はない。それでも、ずっと傍にいてくれたあの少年の気配だけは、唯一彼女にも感じ取ることができた。彼の存在を感じ取ることにおいて、視覚も聴覚も必要無い。


「────リュー君」


 瞬間、流星の如き速度で墜ちてきた黒髪の少年の飛び蹴りが天使を襲う。


 天使の頭部を正確に捉えた龍也の右足は、彼の纏っていた莫大な運動エネルギーでもって天使の頭部を一撃で粉砕した。


「──フィリア!」


 アパートの前の道路にコンクリートを割り砕きながら着地した龍也が、彼と共に地面に落下した天使の残骸を片手でフィリアの目の前に放り込む。


「そいつで聖気を補給しろ!」


 そう叫ぶなり、雨雲の中に消えていった天使達を追って、龍也は猛烈な速度で飛び上がった。


(リュー君が、リュー君が来てくれた……!)


 彼の姿を見た瞬間、ピンと張り詰めていた緊張の糸が途切れ、アリサは気付くと床の上にペタリと座り込んでしまっていた。


 降り注ぐ雨の冷たさが気にならなくなるほどの安堵が体を包む。


 防御結界を解除したフィリアが、頭部を無くしピクピクと痙攣している天使に歩み寄り、その傍にそっとしゃがみこむ。


「……悪く思わないでください」


 呟きと共にフィリアが天使の胸の上に手をかざし、小声で詠唱を口ずさんだ。


 天使の体が端からほつれ、白い粒子となって崩れていくと同時に、白い粒子はかざされた掌を伝ってフィリアに流れ込んでいく。


 消滅した天使の聖気を吸収し尽くしたフィリアは、ふうとため息をついてからゆっくりと振り返る。


「……間一髪でしたね。怪我はありませんか?」


「う、うん。まだ少し目がチカチカして耳鳴りもするけど、他は大丈夫」


 安心したように微笑んだフィリアは一転して険しい顔で空を仰いだ。


「何故、彼らは二手に分かれたのでしょうか。三人全員に襲われていたら、私はひとたまりもありませんでした。雲の中に向かった彼らの目的は一体……」

 

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