第四章 迷い②


「お兄ちゃん、疲れた~!おんぶして!」


「まだ半分も登りきってないぞ……」


 しとしとと降り注ぐ雨の中、幼い少女の甲高い声が周囲の木々に吸い込まれていく。


 龍也と真唯は道場に続く山道を傘を差して延々と登っていた。


 龍也の祖父、神代龍厳の道場は、隣町の外れにある山の頂上付近にポツンと建っている。毎週末この道場に稽古のために通うのが龍也の一人暮らしを始めてからの習慣だった。


「おんぶしてくれなきゃ帰る~!」


「じゃあ帰れ」


「冷たっ!いいじゃん、別におんぶくらい。減るものでもないし」


「嫌だね、面倒臭い。大体、雨が降ってるのにおんぶなんてしてたら濡れちまうだろうが」


「おんぶされた状態で私が傘を差せば二人とも入れるよ。そもそもお兄ちゃん、おんぶっていうのはね、女の子と合法的に密着できる数少ないシチュエーションなんだよ?そんなチャンスをみすみす逃すなんて、お兄ちゃんはまだまだだなぁ」


 謎の上から目線でやれやれと首を振る十二歳の少女。


 龍也はそんな真唯の顔……のやや下を見つめ、嘲るような笑みを浮かべる。


「あばらの浮き出たまな板に興味はねえ。Cを超えてから出直して──いでっ!」


 最後まで言わせてもらえなかった。腰の入った良いローキックだった。


「ま、まだまだこれからだもん、あと三年もしたら私もお姉ちゃんみたいなボンキュッボンなボディになってるもん!」


「いや、そもそも三年前のアリサはもっと胸デカかった気が──」


「あ゛?」


「すみませんなんでもないです」


 キレた時の顔が姉とそっくりで反射的に謝ってしまう龍也。


「…………おんぶ」


「……ったく、今回だけだからな」


 真唯から預けていた荷物を受け取り、代わりに使っていた傘を渡す。


 二人で手分けしていた荷物と、まだ小学生とはいえ人間一人を抱えても龍也の足取りが乱れることはない。


「……ねぇ、お兄ちゃん」


「ん?」


 真唯を背負って黙々と山道を登る龍也に、彼の背中に顔をうずめていた真唯がポツリと呟いた。


「お兄ちゃんはさ、いつからこうやって、龍厳さんのところで修行してるの……?」


「大神災の後、じいさんの家に転がり込んでからだから、大体七年前からだな」


 真唯がこうして稽古に同行するのは初めてだが、その稽古の過酷さはアリサから聞き及んでいる。

 七年前と言えば、龍也はまだ八歳。現在の真唯よりもさらに幼い。


「やめようって思ったことはなかったの?」


 龍也は一瞬だけ背中の真唯に目を向けたが、すぐに視線は前に戻った。


「そりゃ毎日思ってたよ。辛いし痛えし、こんなことやってられるかって。でも、泣き言なんて言ってられる余裕は無かった。生き残るためには強くなるしかなかったからな」


「…………」


 当時五歳だった真唯はおぼろげにしか覚えていないが、周囲の大人たちから当時の悲惨な状況はある程度聞き及んでいた。


 大神災発生直後から、人類の対天使戦線が確立するまでの間の暗黒の時代。シンプルに『混乱期』と呼称されることの多いその一年間で、人類の総人口は約半分にまで減少した。


「あの頃は今と違っていつどこに天使が現れるかなんて分からなかったし、世界中がグチャグチャに混乱してて他所からの助けなんて期待できなかった。突然街に天使が現れて、数時間後にはその街が地図から消えてる、そんなのが日常茶飯事だった」


 突如としてこの世界に天使達が現れたあの日、ほぼ同タイミングで現れた悪魔の軍勢によって、人類は辛くも絶滅を免れた。


 しかし、その後も断続的に続いた天使の襲撃によって交通網やライフラインはズタズタに破壊され、世界中で生活する土地を失った難民が大量に発生したが、当時の各国の政府には彼らのために割く余力は残されていなかった。その結果、各地の街では貧困や飢餓に苦しむ人々の一部や、死の危険と隣り合わせの生活に心を侵された人々が暴徒化し、情勢は混迷を極めたという。


 対天使戦線が構築され人類の活動範囲をある程度奪還したとはいえ、復興が完了しているのは人口の集中する都市部がほとんどで、その都市部の端に位置するこの逸加市のさらに外側には、今も手付かずのままの廃墟が広がっている。


「……でも、今はもう自衛隊や学園の人たちが天使と戦ってくれてる。お兄ちゃんがこれ以上強くなる必要はないんじゃないの?」


「……あー」


 彼女には昨日の話を伝えていない。龍也はどうはぐらかそうかとしばらく思考を彷徨わせていたが、途中で面倒くさくなり頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。


「いざって時に後悔したくないんだよ。自分が無力なせいで大切なものを失うなんて真っ平御免だ。だったら足を止めるわけにはいかないだろ」


「…………そっか」


 真唯が嬉しそうに微笑む。龍也はその姉そっくりの笑顔を直視できず、思わず視線を逸らした。


 果たして彼女がもう一度あの笑顔を自分に向けてくれることはあるのだろうか。ふとした疑問に胸が痛む。


 黙り込んだ龍也を見て、真唯はやれやれとため息をついた。

 

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