第四章 迷い①


 ──ピンポーン、ピンポーン。


 龍也の意識を目覚めさせたのは、鳴り響くチャイムの音だった。


「誰だよ、こんな朝っぱらから……」


 毒づきつつも、龍也に来訪者の対応をする気配は無い。居留守を決め込むつもりらしい。


 ──ピンポーン、ピンポーン。


 どうやら昨日アリサが帰った後、布団を敷く気力もなく床に寝転がっているうちに、そのまま眠りに落ちてしまったようだ。バキボキと関節を鳴らしながら立ち上がり、フィリアが昨日と同じ位置で座ったまま瞼を閉じていることを確認した龍也は、もう一眠りしようとフラフラとした足取りで布団に向かう。


 ──ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン。


 毎週土曜日は祖父の道場に行って稽古をつけてもらうのがここ数年での習慣だが、今日は到底稽古に行けるようなコンディションではない。適当な理由をつけてサボってしまおう。


 いつもはアリサが弁当持参でついてきてくれるのだが、今日は流石に来てくれないだろうという予想が、龍也のテンションを限りなくゼロに近い数値にまで落ち込ませていた。具体的には、来訪者に対応する気にもならないくらいまで。


 ──ピンポピンポピンポピポポポポポポピーン。


「おいお前今なにやりやがった!?」


 前言撤回。たまらず玄関の扉を開け放った龍也の目に映ったのは、ブロンドヘアを二つ結びにしたアリサ似の少女、即ち彼女の妹、天壌真唯だった。


「お兄ちゃん、おっはよう!」


「人違いです。俺に妹はいません」


 すぐさま扉を閉め、鍵を掛ける龍也。


 ドンドンドンドン。


「意地悪しないで開けてよー。ていうか、私がお兄ちゃんのことを間違えるわけないじゃん!」


「俺はお前の兄貴になった憶えはないし、いい加減お兄ちゃんって呼ぶのは止めろっていつも言ってるだろ」


「分かった分かった。変えればいいんでしょ、変えれば。──では改めまして。お義兄ちゃん、おっはよう!」


「……で、何の用だ?」


 溜息と共に何か大事な物を諦めた龍也は、疲れた声で聞いた。


「うん、とりあえず鍵開けてくれない?いたいけな少女を雨の中外に放置するって、普通に虐待だと思うんだけど」


「変な人が来たら鍵開けちゃいけません、って小学校で習わなかったのか?」


 カチッ、ガチャ。


「まあ、お姉ちゃんから合鍵預かってるから問題ないけど!」


「くそ、マジか……」


 ドヤ顔で扉を開け放つ真唯と、謎の敗北感に包まれる龍也。玄関の外に彼女を留めておくのは無理だと悟った龍也は、素早く目線でフィリアに隠れろと指示を出そうとしたが、既に彼女は押し入れに退避した後だった。


 フィリアの素早い行動に感心しながら真唯を部屋に入れると、彼女はキョロキョロと部屋を見回し、


「んー、久しぶりにお兄ちゃんの部屋に来たけど、あんまり変わってないなぁ」


 龍也は眠気も相まって不機嫌そうに返答する。


「変える必要が無いからな」


「えっちい本の隠し場所も変わってないし」


「勝手に漁るな!」


 一発で眠気が吹き飛んだ。フィリアが隠れている押し入れには近付けさせまいと、龍也はさりげなく立ち位置を調整する。


「はっ!お兄ちゃんのお宝なんてチェックしてる場合じゃなかった!私には重大な任務が課せられているんだよ!」


「いいから早く用件言えよ……」


 朝っぱらからテンションの高い真唯に、心底うんざりした様子で龍也は言った。


「まったく、お兄ちゃんはせっかちだなぁ」


 真唯は部屋の真ん中で仁王立ちになり、声高に宣言した。


「今日一日、私はお姉ちゃん代理として、お兄ちゃんと思う存分イチャイチャします!」


「…………はぁ?」


 龍也の目つきが面倒臭い奴を見る目から、アホの子を見る目に変わったが、真唯はめげずに、


「具体的には、龍厳さんの道場まで腕を組んで行ったり、お弁当をお兄ちゃんにあーんってしてあげたり、稽古の後に一緒にショッピングをしたりします」


「……あー、張り切ってるところ申し訳ないんだが、今日は稽古休もうと思っててな」


「えー!なんで!?」


「なんていうかな……。今日は調子が乗らないっていうか、体調が悪いっていうか……」


 適当にぼかして煙に巻こうとする龍也に真唯は平然と言い放つ。


「あ、昨日お姉ちゃんと喧嘩しちゃったから、体と精神が崩壊を迎えようとしているんだね。大丈夫、早めに仲直りできれば死には至らないよ」


「そんな理由で崩壊してたまるか。っていうか、何でお前が昨日のこと知ってるんだ?」


「何も知らないよ。ただ、お姉ちゃんの様子を見て、あ、これはお兄ちゃんと喧嘩したんだなって」


「何でそれだけで分かるんだよ。お前はエスパーか」


 真唯は困ったような笑みを浮かべ、


「お姉ちゃんって不満とかストレスは全部自分の内にしまいこんで平気なふりをするんだけど、お兄ちゃん絡みのことだけは我慢しきれなくてすぐ顔とか態度に出るからね。一発で分かっちゃう」


「…………」


 昨夜のアリサの表情を思い出し、思わず顔が歪む。


「……と、とにかく、俺は今日は稽古には行かない。分かったらもう帰れ」


 すると、真唯は露骨に残念そうな表情を浮かべ、後ろ手に持っていた二人分の弁当の入ったバスケットをこれ見よがしに胸の前で抱え直した。


「そっか、今日はお兄ちゃん具合悪くて稽古行けないんだ……。じゃあ、このお姉ちゃん特製弁当も食べられないね。お兄ちゃんのために作った弁当が手付かずで戻ってきたら、お姉ちゃんがっかりするだろうな……」


 肩を落としながら龍也に背中を向け、とぼとぼと帰ろうとする真唯に、龍也は苦虫を噛み潰したような顔で声を掛けた。


「……待て」


「ん?どうしたの、お兄ちゃん」


「…………十分で支度するから待ってろ」


 彼女の掌の上で踊らされていると分かっていても、龍也にもはや選択肢は残されていなかった。

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