断章 追憶
「────今、なんと?」
告げられた言葉のあまりの荒唐無稽さに、フィリアはぽかんとした顔で師匠を見つめ返す。
「いずれ近いうちに我らが主の御言葉によって、熾天使ミカエルによって組織された聖伐軍が人間界への侵攻を開始するでしょう」
フィリアの師であり、今代の熾天使ガブリエルの名を授けられた天界随一の知恵者、ミラ=ガブリエルは先程と全く同じ口調と表情で言った。
「わ、我ら天使は人間の誕生と同時に主の御技によって創造され、人類の行く末を見届けることを存在理由として今まで活動してきたではありませんか!そ、それが何故そんな唐突に……っ!?」
「混乱するのも無理はありません。私でさえ未だこの事態の全容を掴めていないのですから」
なんの前触れもなく師匠から彼女の執務室に呼び出された直後に突きつけられた現実は、容赦無くフィリアの脳をショート寸前にまで追い込んでいく。
天使の長、熾天使ミカエルがどの程度の規模の軍勢を組織するつもりなのかは定かではない。しかし、天使と人間の基礎スペック、存在の格の圧倒的な差を鑑みるに、人間界での天使の活動限界を考慮してもすでに人類の滅亡は決定してしまっているといっても過言ではない。
「……し、師匠もその聖伐軍に加われるおつもりなのですか?」
この質問にはあまり意味がないことは、当のフィリアにも分かっていた。
主によって創造され、主の意思を地上に届けることが存在意義である天使たち、その中でも最高位かつ最大戦力である熾天使の一角を占める彼女の師が、これほどまで重要度の高い任務において招集されないわけがない。
しかし、ミラの返答はフィリアにとって予想だにしないものだった。
「──いえ、私は今回の任務には参加しません。人間界にて成さねばならないことがありますので。……本当はこんなところで油を売っている場合ではないのですが、最後にあなたの顔を見ておきたくて」
「……単独任務、ですか?それに最後だなんて……」
天使には肉体的な寿命は存在しない。度重なる過酷な戦闘や超長期的な活動による魂の磨耗や損傷、あるいはそれらを癒すための記憶や人格を破棄しての霊核の再構成。これらが人間でいう死亡に該当する事象だが、まだ年若い師匠にはしばらく縁のない話のはずだ。
困惑するフィリアに、ミラはそっと目を伏せて言葉を紡ぐ。
「任務ではありません。これは私が私自身のために行うこと。……しかし、残念ですがこの行いは主の意向に反してしまう可能性が非常に高い」
「ま、まさか……っ」
フィリアは自身の顔から急速に血の気が引いていくのを感じた。これまでの師との会話の中で登場したいくつかの不穏なワード。それらがフィリアの脳内で並び、最悪の方程式を組み上げていってしまう。
「し、師匠。あなたは主の意思に背いて、この戦争を妨害するおつもりなのですか……!?」
「……さすがですね、フィリア。これだけのヒントから正解にたどり着けるとは。私も師として鼻が高い」
自分の思い違いであってほしい。そんな馬鹿な話があるわけないだろうと言ってほしい。そんなフィリアの願いは、ミラの儚い笑顔によって脆くも崩れ去った。
天使が創造主である主に真っ向から逆らうなど前代未聞、それが堕天によるものではないのなら尚更だ。とても正気とは思えない。
しかし、フィリアには師の決断を一片の正当性もない反逆だと断じることはできなかった。
数千年にも渡って人類史の歩みを静観し続けてきた主が、なぜこんなにも唐突に人類の殲滅を決意したのか。末端であるフィリアはともかくとして、「神の言葉を伝える者」としての使命を帯びた熾天使ガブリエルであるミラが事前に何も聞き及んでいないという時点で、事態の異常さは明らかである。
「…………もう、会えないのですか?」
「おそらく」
優しい表情とは裏腹に、ミラの返答は容赦無くフィリアに現実の非情さを突きつける。
「我らが主を心変わりさせるなどという壮大で曖昧な目的がたかが数年で達成できるとは思えませんし、このことを知ったミカエルが私を放っておいてくれるはずもないでしょう。道半ばで朽ち果てる可能性の方が高い。……いえ、これはそうならない方がおかしいと言い切ってしまえるほど困難な道のりです。それに、今後事態がどう転んだとしても一度主に背いた私が赦されることはあり得ません。……ですので、私とあなたはここでお別れです」
「……私は、これからどうすればいいのでしょうか」
当のフィリアにも、師匠にどんな言葉を求めていたのかはよく分からなかった。
それでも、敬愛する師に自らの行くべき道を指し示してほしい。そんな一心でフィリアはすがりつくように問いを投げかける。
そんな弟子の姿にミラは寂しげに、しかしどこか誇らしげに微笑みかけた。
「──私のこの選択は、私自身が選んだ私だけのもの。ですから弟子であるあなたにまで押し付けるような真似をするつもりはありません。……残念ながらもうあまり時間は残っていませんが、精一杯考え、悩み、もがき苦しみなさい。主の意思を盲信し人類を抹殺することになんの負い目も感じない者たちと違い、あなたには人間を守護し続けるという選択肢を切り捨てない強さがある。あなたがどちらの道を選んだとしても、私は最後まであなたを自慢の弟子として誇りに思っていますよ」
──それは違う、私は切り捨てないのではなく切り捨てる度胸がないだけ。私はあなたが思っているような立派な天使ではない。
喉まで出かかったその言葉を、フィリアは必死に押しとどめる。
自分のことを自慢の弟子だと言ってくれた師匠の顔に泥は塗りたくなかったからだ。
既にフィリアに背を向け執務室の扉に手をかけていたミラが、最後にちらりと背後を振り返って言った。
「主の御言葉に従うのならミカエルを、この争いを止めようとするのならばラファエルを頼りなさい。そしてどちらを選んだとしても、もう片方には最大限の注意を払いなさい。彼らは仲間としては心底頼もしいですが、敵に回すととんでもなく厄介ですので。……それでは」
「し、師匠!」
扉を開け執務室から、彼女の前から、そしてこの天界から姿を消そうとしていたミラに、フィリアは必死に呼びかける。
「どうか、どうかお達者で…………っ!」
「……ありがとう。あなたの旅路に神のご加護のあらんことを」
彼女は振り返らなかった。
部屋に一人残されたフィリアは胸に当てた拳を固く握りしめる。
「私、は────」
彼女の孤独な戦いは、そうして幕を開けた。
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