第三章 告げられた真実③


 土御門が去ると、部屋には沈黙が訪れた。


 龍也とフィリアは俯いてそれぞれ思案に耽っている。アリサはそんな龍也を横目でチラチラと窺いつつ、時折意を決して口を開こうとするが、すぐに力なく口を閉じてしまう。その繰り返しだ。


 数分後、あるいは数十分後だろうか。龍也が顔を上げて立ち上がったのと、アリサが声を上げたのはほとんど同時の出来事だった。


「……あ、あの、リュー君!」


 囁き声のように小さなアリサの掠れた声が届くギリギリの距離。彼女に背を向けていた龍也は足を止め、静かに振り返る。


 ──いつになく凪いだ瞳。


 彼の不機嫌面は一種のポーカーフェイスであり、アリサと二人でいる時はその表情も幾分か和らぐとはいえ、元来龍也はそこまで感情が顔に出やすいタイプではない。しかし、長年龍也と共に過ごしてきたアリサの目を持ってしても、彼からなんの感情も読み取れないのは初めてのことだった。


 ──怖い。今までの陽だまりのような、居心地の良い関係が壊れてしまうことがたまらなく怖い。アリサは勇気ではなく不安と恐怖に背中を押されて口を開いた。


「も、もしリュー君が学園に行くなら、私も一緒に──」


「駄目だ」


 龍也の答えは簡潔で、真正面から彼女の想いを拒絶するものだった。


「き、危険なのは分かってる。でも、それでも、私は──っ!」


 それでもなお食い下がろうとするアリサに、龍也は静かに言った。


「──俺は、お前に、ついて来て欲しくない」


「────っ!」


 ジワリと視界が滲んだ。心の仮面がひび割れ、剥がれ落ちていくのを感じる。いつも穏やかに笑って何事もそつなくこなすしっかり者。その裏側に潜む、臆病で我儘、そして泣き虫な少女天壌アリサが暴れだす。


 きっと今、自分はとても情けない顔をしている。

 龍也に顔を見られないように、深く俯く。


 自分の醜い本心が飛び出そうとしているのを感じ、アリサは咄嗟に口を開いた。


「──リュー君のバカッ!私がいなきゃ、何もできないくせに!!」


 口から飛び出した言葉は、彼女が伝えたかった想いとは真逆のものだった。


 アリサは龍也の顔を見ることも出来ず、俯いたまま背を翻し廊下に向かって駆け出した。

 玄関に置いてあった自分のポーチをひっ掴み、普段ではあり得ない乱暴さで靴に足を突っ込んでいる間も、今この場で龍也が謝ってきた場合の自身の対応をシミュレートしているどこか冷静な自分が殺してやりたくなるほど憎らしい。


 玄関の扉を開け外の渡り廊下に飛び出す最後の一瞬、アリサはちらりと背後を振り返った。先程と同様の凪いだ瞳で、何も言わずにただこちらを見つめていた龍也と視線が交錯する。


 感情の読み取れない瞳に、貼り付けたかのような不機嫌そうな表情。それなのに、彼女の目には彼が今にも泣き出してしまいそうな幼子のように映った。


(──どこまでも自分勝手。そんなの、私にとって都合のいいようにリュー君の感情を捏造してるだけじゃない)


 逃げるようにボロアパートを飛び出したアリサを待ち構えていたかのように、淀んだ曇天から最初の一雫が滴り落ちる。


 瞬く間に勢いを増す雨に打たれながら、アリサは醜い自分を噛み殺すかのように歯を食いしばりながら走り続ける。


 ずっと寄り添い支え合いながら生きていくんだと根拠もなく思い込んでいた幼馴染の少年が、彼女を追ってくることはなかった。







 龍也が瞼を開くと、そこはどこまでも広がるなだらかな丘陵地帯だった。


 空は淀んだ灰色に覆われ、遠くからゴロゴロと雷雲のいななきが聞こえてくる。冷たい風が吹き抜け、龍也はブルリと肩を震わせた。

 彼が立っているのはこの中でも比較的高い丘の中腹。背後にある丘の頂上には樹齢千年は超えようかという一本の大樹が生えている。


 振り返らずとも分かる。何故なら、龍也がこの土地に足を踏み入れたのは一度や二度ではないからだ。


 そして、背後にある大樹の陰、天気のいい日なら絶好の昼寝スポットであるそこを常に独占しているのは。


「────よお」


 背後から投げかけられた声に応じるように、龍也はゆっくりと振り返る。


 大樹の陰、そこに横たわっていたのは全長十メートルを優に越す小高い丘のような巨体。

 鈍色に輝く鋼鉄よりも硬い鱗に覆われたずんぐりとした体躯に、鋭い鉤爪のついた四本の足。背中に折りたたまれているのは薄い膜の張った一対の翼。蜥蜴をそのまま巨大化させ、そこに冠のような二本の角を付け足したかのような頭部。


 御伽話の絵本からそのまま飛び出してきたかのような姿をしたこの怪物こそ、七年前から龍也の内に巣食う名称不詳の竜、ジーク。


 ここは龍也の精神世界。もっと正確に表現するならば、龍也の精神、そしてその一部を間借りしているジークの精神、この二つの魂が触れ合い、僅かに融け合っている部分。


 龍也にとって、この空間にいる時間は明晰夢を見ている状態に近い。今この瞬間、龍也の肉体は基本的な生命活動以外の動きを全て停止させているため、外からはぐっすりと眠っているように見えているはずだ。


 龍也はここに至るまでの経緯をぼんやりと思い返す。


 今自分の肉体があるのはアリサが消え、再び静寂を取り戻したアパートの一室。

 彼女が飛び出していった後、気配を消してアリサの後を追い彼女が自宅に飛び込むところまでを見届けてから自室に戻ったものの、何をする気力も湧かずただひたすらに床に寝転がり宙を見つめていたはずだ。


「……ジーク。悪いが今日はお前と取っ組み合う気分じゃねえんだ。用がないなら俺はもう戻るぞ」


 今まで龍也は二日に一回ほどのペースでこの空間を訪れ、ジークと組手という名の殺し合いを行なっていた。

 このどこまでも広がっている丘陵地帯は龍也の心象風景を具現化させたまやかしの景色。どれほど凄惨に破壊しようと次に訪れた時にはまるで何事もなかったかのように復元されている。普段は行うことのできない大規模な魔力行使の訓練場として、この場はまさにうってつけだった。


「なに、あれだけあの嬢ちゃんを守るとか言ってイキってたくせに、結局自分の都合であいつを泣かしてるお前のみっともねえ醜態を嘲笑ってやろうと思ってな。出来の悪い三文芝居、ご苦労様だぜ」


「…………」


 今回龍也がこの空間にいるのは自分の意思ではない。つまりジークによって強制的に呼び寄せられたのだ。


 ジークの彼の内心を理解し、その上で放たれた痛烈な罵倒に、龍也は言葉を返すことができなかった。


(私がいなきゃ、何もできないくせに……、か)


 全く持ってその通りだ、と龍也は弱々しく笑う。


 彼女がいなければ自分は今頃、警報が鳴るたびにシェルターに逃げ込み震え上がる臆病者か、戦場を支配する狂気に屈した哀れな殺戮人形に成り下がっていただろう。

 心折れずに戦い続けることが出来るのも、狂気に塗れた戦場と平穏な日常を往復して正気を保っていられるのも、全ては彼女が傍にいてくれたからだ。


「それだけ頼り切ってたくせに、よくもまあついて来て欲しくないなんて言えたもんだな」


 ジークが普段の陽気な調子とは打って変わって皮肉気に言った。

 この二人の精神が融け合った空間では、偽りの言葉はほとんど意味を為さない。龍也は絞り出すかのように呟く。


「……学園に行けば、天使との戦いはますます激しくなる。これ以上あいつを危険に晒すわけにはいかない」


 ジークは龍也の言葉を完全に黙殺し、気軽な調子で言い放った。


「断言しておくぞ。嬢ちゃんをここに残して戦場に向かえば、お前は間違いなく壊れる。そして、オレは壊れた後までお前に付き合う義理は無い。お前が壊れたとオレが判断すれば、その場でお前の精神を焼き殺して体の支配権を奪わせてもらう」


「……俺がイカれる前提で勝手に話を進めるな」


「人間の心なんて、きっかけ一つで簡単に壊れちまうもんなんだよ。普段から高い負荷に晒されているなら尚更だ。お前、あの嬢ちゃんがいなくても自分はやっていけるなんて本気で思ってるわけじゃねぇよな?もしそうなら、お前は本物の大馬鹿野郎だよ」


 ──そもそも、あんなに可愛い娘を泣かしてる時点で気に食わねぇ──


 そんなジークの台詞と共に、龍也の視界がぐにゃりと歪んだ。


「……ぅ」


 気が付けば、視界に映るのは見慣れた天井。


「あの野郎、好き勝手言いやがって……」


 唐突に呼び寄せられ一方的にまくし立てられた挙句、問答無用で精神世界から追い出された龍也は、床に寝転がったまま身勝手な相棒への恨み言を漏らす。


 普段ならアリサの作った夕食を二人で食べてから眠気が来るまで外で剣を振る、それが彼の夜の日課だったが、今は何も喉を通る気もしなければ、体を動かす気力も湧かない。


 彼女の安全を第一に考えるなら、自分の判断は間違っていなかったはずだ。

 アリサを守る。大神災以降、龍也の行動方針の最上位に居座り続けた信念。今までその決意を貫き続けて、後悔なんてしたことはなかった。


 なのに何故、今回はこんなにも胸が苦しいのだろう。


 龍也には自分の内に湧き上がる感情さえ理解することができなかった。


 ただ一つ分かっているのは、自分が最大の理解者であった幼馴染を傷つけてしまったという、厳然たる事実だけだった。







 暗い部屋の中、アリサは一人ベッドの上で蹲っていた。


 廊下から自分を夕食に呼ぶ妹の声が聞こえるが、今は何も食べたくないし、誰かと顔を合わせたくもなかった。

 アリサが呼びかけに反応せずジッと気配を殺していると、やがて彼女を呼ぶ声は聞こえなくなった。


 寝転がって思考を漂わせる。真っ先に頭に浮かぶのは、やはり──。


「私、なんであんなこと言っちゃたんだろう……」


 龍也の部屋で、別れ際に放ったあの台詞。


 ──私がいなきゃ、何もできないくせに──


 二人とそこまで深く関わっていない人、例えば先日卒業した中学校の元同級生などが聞けば、それほど違和感を覚えなかったかもしれない。しかし、あの台詞は本来なら自分が浴びなければならなかったものだ。


 社交的で明るい優等生の少女という人物像は、彼女が普段纏っている仮面に過ぎない。本来の彼女は引っ込み思案で人見知りな、親しい人以外と話すことさえ嫌がるような性格だった。幼い頃は事あるごとに龍也の背中に隠れて嫌なことから逃げようとしていたものだ。


 しかし大神災でジークと名乗る竜と契約し、自分を、周囲の身近な人を、そして自らの住む街を守るためにがむしゃらに戦い始めた龍也を支えるために、彼女は変わった。彼の不足を補えるよう無我夢中で努力している内に、彼女は周囲の自分に対する認識が様変わりしていることに気付いた。


 臆病で内気な自分でいるより、周囲から憧れや羨望の眼差しを向けられるような、そんな自分を演じていた方が彼を支える上で都合が良い。

 そんな理由で繕い出した虚勢を今でも張れているのは、ひとえに彼がそばにいてくれたからだ。


 しかし、自己を偽れば偽るほど、精神安定剤としての龍也の存在が大きくなっていく。

 もし彼がアリサを置いて学園に旅立ってしまえば、アリサは今の自分を保つことすら出来なくなってしまうだろう。その未来を想像するだけで、不安と寂しさで頭がおかしくなりそうだった。


「お願い、私を置いていかないで……」


 少女の呟きは誰にも届くことなく暗闇に消えて行った。

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