第二章 邂逅①
時は少し遡る。
避難警報が解除され、日常を取り戻した街の中を天壌アリサは上機嫌で歩いていた。
(今回は街に被害も出なかったし、リュー君も怪我してないって言ってたし、うん、文句無し!)
七年前の大神災の日に異界とつながるゲートが開いた場所は日本国内では三箇所。例外なく焦土と化したそれらの土地は地脈や霊脈といった霊的環境が乱れ、異界と繋がりやすい危険な状態となった。その後、土地の価値の基準は「どれくらいこれらの危険地帯から距離が離れているか」に変化し、富裕層や、大神災の被害にあわなかった人々は軒並み新たに建設された新首都やその周辺の都市に逃げ込んだ。
龍也やアリサの住むこの逸加市は、政府の定める「安全エリア」の居住定員から漏れた人達のために大神災の戦域のギリギリ外に位置していた街を突貫工事で修復させたものの一つだ。
日本の三大焦土の一つ、北関東焦土の南端から五キロ程離れた場所に位置するこの街では、天使襲撃のリスクと引き換えに、水道や電気といった各種インフラの費用や物価などが限界まで押さえ込まれている。
(しばらく前にリュー君が倒しきれなかった天使が街に来た時は大騒ぎになっちゃったからなぁ……)
幸い、彼によって消滅寸前まで追い詰められていた天使は街に侵入した直後に力尽き消滅したが、目と鼻の先まで天使に接近された住民たちの一部はパニックを起こし、その騒動の責任を全て龍也に押し付けようとした。その時は平賀が上手く事を収めてくれたが、いまだに彼に向けられる悪意は消えていない。
(この街の防衛戦力はリュー君一人しかいないっていうのに、自分がいるのは安全地帯だとかご都合主義全開で思い込んで、あまつさえリュー君に対して不満ばっかり押し付けてきて……。ああいう身勝手な人間にだけはなりたくないな)
悪魔を体内に宿すデモニアを忌避する風潮は大神災直後から消えることはなかった。結果的に悪魔が人類の存続に大きく貢献したとはいえ、天使による街の破壊や虐殺を目の当たりにした人々が、人ならざるものという点で共通する悪魔に恐怖を覚えるのは至極当然の成り行きではある。
焦土に隣接し、常に天使襲撃の脅威に晒されている逸加市はまだマシな方で、大神災以来天使とは無縁な生活が送られている新都市周辺では、壮絶なデモニアの迫害が行われていると聞く。
これから平賀のところに報告に行かなくてはいけないと電話越しにボヤいていた龍也のためにも、早く帰って美味しい夕飯を用意しなくてはと意気込むアリサは、頭の中でこれからの段取りを考えながら足早に歩を進めていく。
(今日は挽肉が安かったからハンバーグを作って、作り置きのサラダと……、いやこの前買った魚もそろそろ食べちゃわないと────)
通い慣れた道であるがゆえに、注意が散漫になっていたアリサの足が何かに引っかかる。気付いた時には体は宙に浮き、前のめりに地面に倒れ込む寸前だった。咄嗟にアリサにできたのは、頭を上にそらし、顔から地面に激突することを回避することだけだった。
「ふぎゅっ!」
細身な体の割には豊かな胸がクッションとして機能したのか、倒れ込んだアリサはすぐにもぞもぞと動き出す。
「いったぁ……」
この春から高校生だというのに、年甲斐もなく道端で転ぶとは……と、情けないやら恥ずかしいやらで思わず顔を赤くしたアリサは、涙目で体を起こして状況を確認する。
怪我は無し、手に持っていたレジ袋の中の食材も無事。そこまで確認したアリサは、自分が躓いた原因を確認するため視線を後方に向ける。
まず目に入ってきたのは、道端に力無く投げ出された白く華奢な足。どうやら壁にもたれかかって座り込んでいた人物の足に引っかかってしまったらしい。
(病人か怪我人……?でも裸足ってことは酔っ払いかも……。どっちみち意識が無いようなら救急車を呼ばなきゃ)
動揺することなく冷静に対処しようとしたアリサだったが、視線を上げた瞬間、思考が止まった。
あまりにも左右対称に整いすぎて人間味に欠けた顔立ち、不自然なほど艶やかに煌めく白銀の髪、そして極め付けは腰部から生えた白翼と頭上で不規則に明滅する光輪。
そう、それは紛れもない────
「てん……し……?」
混乱、焦り、恐怖、様々な感情が溢れ出し、アリサの体を縛り付ける。彼女の眼前でぐったりと座り込んでいる存在こそ、七年前の大神災で人類を絶滅寸前にまで追い詰めた、まさしく人類の仇敵なのだ。そんな全人類の恐怖の対象が目の前に突然現れた時に、すぐさま適切な行動をとれる者などほとんどいないだろう。
(どうしてこんなところに天使が──さっきの戦闘でリュー君が倒し損ねた?──とにかく気づかれる前に逃げなきゃ──リュー君に電話して──)
「…………ぅ」
アリサの硬直を破ったのは、目の前で座り込む天使が漏らした微かな呻き声。金縛りの解けた彼女が取った最初の行動は、この場からの逃走だった。
(落ち着いて、大事なのは天使に存在を気付かれないこと。ゆっくりでもいい、とにかく音を立てずにこの場から離れなきゃ……!)
地面に転がっているスーパーの袋を手に取る余裕なんて無い。アリサは震える足に力を込めてゆっくりと立ち上がる。鼓動の音がうるさい。不規則な呼吸が漏れないように口を片手で塞ぐ。
一歩、二歩、三歩。天使から目を離さずにゆっくりと後ずさる。天使はピクリとも動かず、こちらの動きに気づいた様子は無い。
(……よし、大丈夫。このまま逃げてリュー君に電話すれば──)
いける、そう判断したアリサが意を決して天使に背を向け、一目散に逃げ出そうとしたその瞬間。
「……待ちなさい」
「──っ!?」
文字通り、アリサの鼓動が一瞬止まる。
背後から投げかけられた微かな呟き。普段ならば聞き取れないほど小さな声だったが、極度の緊張状態に陥っていたアリサの聴覚はその呟きをしっかりと拾い取ってしまった。
本能が構わず逃げろと叫び散らかすが、体は投げかけられた言葉の通りに動きを止めてしまう。ゆっくりと、そしてぎこちなく振り返る。
「────ぁ」
強い意志を感じさせる黄金色の瞳と視線がぶつかった瞬間、直前までアリサを苛んでいた焦りや恐怖といった感情がすっと遠のいたような気がした。
「……落ち着いてください。私はあなたに危害を加えるつもりはありません。あなたが私の願いを聞いてくれるのであれば」
「……あ、あなたの目的は何?私に何をしろっていうの?」
アリサの問いかけに天使の瞳が僅かに揺れる。短い逡巡の後、彼女はアリサの瞳をしっかりと見据えて言った。
「私の目的は、この天使と人間の争いを止めること。その為にも、私を追っ手から匿ってください」
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