第二章 邂逅②


 平賀への報告を終わらせた龍也が自宅のボロアパートに着いた時には、既に日は暮れ、辺りはひんやりとした空気に包まれていた。


「……腹減ったな」


 龍也の部屋には既に明かりが点いていた。避難所のシェルターから帰ってきたアリサが夕飯を作ってくれているのだろう。


 龍也が中学校入学を機に山奥にある祖父の道場から離れ一人暮らしを始めてからというもの、アリサは毎日のように家に来て身の回りの世話を焼いていく。龍也の面倒臭がりな性格もあり、アリサに頼りきりの生活になるまでほとんど時間はかからなかった。


(明後日は爺さんのところで修練だから、今朝言ってた水族館、明日行こうって誘ってみるか)


 そんなことを考えながら鍵を差し込み玄関の扉を開ける。

 予想通り玄関にはアリサの靴。廊下に備え付けられた台所に彼女の姿はない。廊下の先の寝室兼リビングから軽い物音が聞こえる。龍也は短い廊下を横切り、扉を開けた。


「アリサ、遅くなって悪かったな。明日なんだけど────」


 ──思考が凍る。


 部屋の中にいたのはアリサともう一人。人間離れした美貌を持ち、異国風のトーガを纏った銀髪の麗人。


 ──天使。七年前の大神災で街を焼き払い、人々を虐殺して回った人類の天敵。


 そんな宿敵が自分の最も大事な人と同じ屋根の下にいる。


 ──思考が回復するより先に、体が動いていた。


 瞬時に魔力を回し、使い慣れた双剣を生成。一歩で部屋を横切り、その勢いのまま壁にもたれかかっている天使の喉笛と胸の核を切り裂く、その瞬間。


「──リュー君、駄目!!」


 目の前に飛び出した影と金色の瞬き。


 ──再び肉体が意識を凌駕した。


 踏み降ろした左足を突っ張り、体に急制動をかける。同時に魔力で腕を覆い、体の外側から力を加えることで無理矢理動きを止める。


 龍也の意識が現実に追いついた時には、目の前に両手を広げたアリサが立ち塞がっており、振り下ろしかけた小太刀の切っ先は彼女の胸のわずか手前で止まっていた。


「……どういうつもりだ」


 龍也は無茶な急制動による体の痛みを押し殺し、アリサを睨む。


「私が連れてきたの」


「何を考えているんだ。犬や猫じゃないんだぞ。そいつは可哀想だから、怪我をしてるからなんて理由で助けていい存在じゃないんだ!」


 アリサの背後にいるのが今日自分が倒し損ねた天使だということはすでに龍也も気付いていた。脇腹に傷を負っていることからもほぼ間違いないはずだ。

 おそらく逃走中だった天使と運悪く遭遇し、とりあえずの避難場所として龍也の家に連れてきてしまったのだろう。


 龍也は初めて、アリサの優しすぎる性格を恨んだ。


 怒鳴られて萎縮していたアリサが、意を決して声を上げる。


「た、多分だけど、この人は他の天使とは違うと思うの!少なくとも、私達と会話する意思はあったし、それに、天使と人間の争いを止めるのが目的だってさっき……!」


(天使と人間の争いを止める……?)


 聞き捨てならない言葉だが、真正面から信じるのはリスクが高すぎる。天使がこちらの油断を誘って奇襲を仕掛けるつもりだとしたら、一番危険なのは自分の身を守る手段を持たないアリサだ。


 かと言ってここで無理に天使を仕留めようとして、彼女と押し問答になるのも得策ではない。アリサの背後の天使は今は大人しくしているが、いつ暴れだすか分かったものではないからだ。


 ──であるならば、自分に取れる最善の手段は。


 アリサを安心させるために両手の双剣を消す。


「……分かった。とりあえず、すぐに殺すのは止める。まずは本当にこいつに戦う意思が無いのか確認したい。……俺からは絶対に手は出さない。だから、ひとまずどいてくれないか」


 龍也の顔をじっと見つめ、嘘の気配が無いことを確かめたアリサは、ホッと息を吐き、体の力を抜く。彼の敵に対する容赦のなさを知るアリサは、文字通り死を覚悟して飛び出してきたのだろう。その冷酷さが自分に向けられることは決して無いとは知らずに。


(さて……)


 改めて目の前の天使を眺める。天使特有の白銀の髪と人間離れした美貌に、異国風の白いトーガ。全体的に色素が薄い。

 普段は殺し合いの場でしか顔を合わせないので細かく観察する暇は無かったが、やはり今思い返してみれば人型の天使は皆かなり整った顔立ちをしていたように思える。


 彼女の頭上に浮かぶ光輪が不規則に瞬く。龍也の記憶が正しければ天使の光輪は点滅などしないはずだが、彼女の不調を表しているのだろうか。


 目の前でぐったりとしている女性型の天使は、目を閉じ浅い呼吸を繰り返している。

 脇腹の刺し傷から見ても、この天使が先ほど龍也と戦闘を繰り広げていた天使と同一個体であることは間違いない。


(あの時ちゃんととどめを刺せていれば、こんな面倒なことには……)


 アリサを危険に晒してしまった自分の不甲斐なさに心底腹が立つ。あの日、何のために力を求めたのか。大事なものを守れないのならば、こんな力に意味なんて無いのだ。


 だが、今はそんなことを考えている場合では無い。龍也は荒れ狂う心を押し殺し、内に潜む自らと契約した悪魔に呼びかける。


(おい、ジーク。起きろ、厄介ごとだ)


 ジークはブツブツと文句を言いながら深層意識から浮かび上がって来る。


(──まったく、竜使いの荒い奴だ。せっかく気持ちよく寝てたっつーのに)


 龍也は天使から目を離さずに答える。


(悪いが、今はそれどころじゃないんだ。ほら、お前にも見えてんだろ。うちに天使が転がり込んできやがった)


 龍也の目を通して天使の姿を確認したジークは、


(こりゃまた、ずいぶん美味そうな体してんなぁ。食っていいのか?)


(ちょっと待て。ていうかお前、俺の体の中にいるのにどうやって食うつもりなんだ)


(……そうだった、食えないんだった……。くそぅ、目の前にこんな食い頃の娘がいるのに食えねえなんて……)


 ひとしきり悔しがったジークは、ため息をついてから話を本題に戻した。


(んで、何でお前ん家で天使がぶっ倒れてんだ?)


 つられて龍也もため息をつきながら答える。


(アリサが怪我してる天使を見つけて、連れて帰ってきちまった。多分昼間倒し損ねたやつだ)


(はぁ、なるほどねぇ。それにしてもお前んとこの嬢ちゃん、少し優しすぎやしねえか?怪我してる侵略者見つけたからって連れ帰ってくるか、普通)


(……俺もそう思う)


 アリサは捨てられたペットを拾って来ることはよくあったが、まさか天使を拾って来る日が来ようとは思ってもいなかった。

 しかし彼女も決してバカでは無い。この天使と遭遇した際に何か感じ取ったものでもあったのだろう。


(それで、この天使なんだけどな……どう思う?)


(殺せばいいだろ)


 一欠けらの躊躇も無いジークの返事に、質問の仕方が悪かったなと反省しつつ、龍也は問い直す。


(いや、そういう意味じゃなくてだな、お前も見ただろ?こいつがゲートが閉じたっていうのに戦場から逃げ出したところを。この天使は他の天使とは何かが違う。上手くやれば珍しい情報を引き出せるかもしれない)


(確かに、言われてみりゃそうだな。だが、素直に吐くかね?天使は強情な奴が多いからな)


(痛めつけても吐かなかったら諦めて殺す、と言いたいところなんだが、アリサの前で拷問する訳にもいかないしな……)


 どうしたものかと頭を悩ませる龍也にジークから助け船が入る。


(殺すのもダメ、拷問もダメとなったら、この天使が聖気を使い果たして消滅するまで見張ってるしかないんじゃねえか)


(……やっぱり、それしか無いよな)


 あまり効率の良い方法では無いが、龍也自身が手を下さずにこの天使に消えてもらうにはそれしか方法はないだろう。


 今後の方針が決まったところで、改めて天使に向き直る。


「おい、お前が気絶したふりをしてることは分かってんだよ。さっさと起きろ」


 龍也の投げかけた言葉に反応するように、力無く座り込んでいた天使の瞼が開く。


「……いつから、気付いていたのですか?」


「そんな警戒心むき出しの状態で意識が無いなんて言われても信じる訳ないだろ」


 呆れ顔で答える龍也。


「先に言っておくが、少しでも不審な動きをしたら即殺す。具体的には聖気の励起と急激な身体移動だ。分かったか?」


「……分かりました」


 コミュニケーションが成立している時点で、この天使が他の天使と比べて明らかに異質であることは既に証明されている。


 龍也は目線でアリサにあまり近づき過ぎないように念を押してから、天使への尋問を開始した。


「まずは、さっきの戦闘で逃げ出した理由から聞こうか」


「私の目的を達成するためには、まだ死ぬわけにはいきませんでしたし、あの場であなたに勝てる可能性はほぼゼロに等しかった。しかも、仮にあの時私が投降していたとしても、あなたが私の話に聞く耳を持たずにとどめを刺すであろうことは明らかでした」


 龍也は思わず顔をしかめる。今の会話だけでこの天使が抜群に頭が回る事が分かってしまったからだ。


「お前の目的ってのは何だ」


「──天使と人間の戦争を止める、即ち、天使による人間界への侵攻を止めることです」


 先程のアリサの話と合致する。だが──。


「……すぐには信じられない話だな。そもそも、お前が嘘をついていない証拠がどこにある?」


「残念ながら、目に見える証拠を提示することはできません。私の言葉と行動だけで信じてもらうしかありません」


「……今の所、お前はあちら側から送られてきたスパイか何かで、俺たちが油断した隙に何かをしでかそうとしているとしか思えないな。目に見える証拠を出せないのなら尚更だ。そもそも、こっちはなんでお前ら天使が人類を滅ぼそうとしているのかすら把握できていないんだ。お前らがこんな大規模な戦争を唐突に仕掛けてきた理由はなんだ?」


「……実のところ、私もその理由を知らされていないのです。ある日突然、主が人類を滅ぼすという宣告を行なったことを師匠から伝え聞いたのみで……。この世界に臨界し貴方達と直接戦闘を繰り広げている下級天使のほとんども、己の戦う意味を理解していないでしょう。天使にとって主の御言葉は絶対です。主の意思に疑問を挟む者など、私の周りには一人としていませんでした」


「……ならお前はなぜこの戦争を止めようと思った?主の言葉は絶対なんだろ?」


「それは……」


 淀みなく龍也の質問に答えていた天使が初めて口ごもる。


 ここが正念場だ。この問いに少しでも嘘が混ざるようなら、他の回答にいくら筋が通っていようがこの天使を信用することはできなくなる。


 龍也はいつでも斬り掛かれるように、天使に感づかれないように注意しながら僅かに体勢を変える。


「……師匠が行方をくらませる直前に、私にこう仰ったのです。『精一杯考え、悩み、もがき苦しみなさい』と。私にはどうしても人類を滅ぼすという主のお考えに賛同することができなかった。……己の心から目を背けたまま過ちに手を染めることに比べれば、例えそれが愚かで無謀な選択だったとしても、ミラ師匠の弟子として胸を張れる。そう考えたのです」


「…………」


 龍也は意識を目の前の天使から逸らさぬまま、後ろに控えていたアリサを見やる。彼の視線に気付いたアリサは、確信のこもった表情でわずかに頷いた。


 彼女は生来の人見知り気味な性格の影響か、人の嘘を見破ることが異様に上手い。この他人の真意を見抜くという特技は普段彼女が纏っている気配り上手な優等生という仮面の補強に大いに役立っている。まさかこんな用途で使用することになるとは思ってもみなかったが。


「…………もし俺から逃げ切れていたらその後どうやってその目的を達成するつもりだったんだ?説明が納得のいくものだったら、ひとまずのところは信用してやる」


「……二十年ほど前に姿を消した私の師を探して、共に方策を探るつもりでした」


「その師匠は今どこにいるんだ?」


「分かりません。天界にいないことは確かなので消去法で人間界のどこか、としか」


「……なんでお前の師匠は行方をくらませたんだ?」


「……分かりません」


「…………そもそも、お前が師匠と合流できたとして、その師匠はこの戦争を止める方法を知っているのか?」


「…………分かりません」


 龍也は顔が引きつっていることを自覚しながらも、何とか言葉を絞る。


「…………つまり、現段階では何の具体策も無いと?」


「………………はい」


 表情の変化に乏しいフィリアの顔からもどことなく気まずげな感情が伝わってくる。


 龍也が錆びついた首を無理やり動かして振り返る。彼の背後で天使の言動に嘘が紛れていないか注視していたアリサが困惑気味に首を振った。

 龍也の経験則から言って、彼女が他人の嘘を嘘と見破れなかったことは一度としてない。つまり……。


 緊張で強張っていた龍也の体からどっと力が抜けた。心なしかうなだれているように見える天使の姿に、思わずため息が漏れそうになる。


 この天使の言葉を鵜呑みにしてここまで連れてきたアリサを見やると、気まずげに目を逸らされた。


「……お前の一欠片も具体性のない大層ご立派な目的は一旦置いておいて、だ。お前、この後どうするつもりなんだ?今この場で俺がお前を殺さなくても、お前がこの世界で活動できる時間は限られている。まさか、消滅するまでの短期間の間に目的を達成できるなんて考えてないよな?」


 天使や悪魔といった外界の存在は、生身の体でこの世界に長く留まることは出来ない。魔力や聖気といった純粋なエネルギーで体が構成されている彼らは、この世界に存在するだけでそのエネルギーを消費していく。魔力や聖気がこの世界の大気や化合物から摂取できない物質である以上、エネルギーの補充は難しく、エネルギーを使い果たしたならば、自己の存在を保てなくなり消滅するのは自明の理である。


「しばらくの間は、聖気に適合できる人間を探してその人間の体を借りて行動するつもりでした。もちろん、それ相応の対価は払うつもりでしたが」


「おいおい、七年も前から人間と天使は殺し合いやってるんだぞ。そんな状況で天使に体を貸す奴なんているわけ──」


 龍也の反論が途切れる。そう、彼も思い出したのだ。大神災直後にこの世界に残った悪魔達がどのようにして適合者に契約を迫っていたのかを。


「確かに普通の人間には相手にもされないでしょう。では、普通では無い状況に追い込まれている者ならば?例えば、難病や大怪我で命が尽きようとしている者や、身近な人が危機に瀕している者。彼らに状況の打開を条件に迫れば、契約はかなりの確率で受け入れられるでしょう」


「……お前の今後の方針は分かった。だが、消滅するまでの短期間の間にそう都合よく条件に合う適合者が見つかるのか?そもそもお前、あとどれくらい臨界していられるんだ?」


「そうですね、万全の状態ならば二週間程度は臨界できたはずですが、すでに私は手負いの身。保って三日といったところでしょうか」


 およそ三日。危険度の判別が出来ない天使を見張るには妥当な時間か。しかもこのままいけば、肉の器を持たない生身の天使は徐々に衰弱していき、時間の経過と共に危険度も下がっていく。付きっきりで見張る必要があるのは精々最初の一日かそこらといったところだろう。


「……アリサ、こいつが契約者を見つけるか、時間切れで消滅するまで俺が見張ろうと思う。それで構わないか?」


 少し離れたところで状況を見守っていたアリサに確認を取ると、彼女は顔を輝かせて頷いた。


「……っ、うん!ありがとうリュー君!」


「まったく、家に天使を連れ込むなんて馬鹿げた無茶はこれっきりにしてくれよ?」


 アリサはやれやれと嘆息する龍也から気まずげに目を逸らし、


「うん、ごめんなさい……。なんて言えばいいんだろう、この人からは嘘の気配がしなくて、天使なのに全然怖くなかったというか……、うまく言えないけど、とにかく大丈夫って思えたの」


「へえ……」


 普段は社交的な優等生の皮を被っているが、本来アリサは臆病で警戒心の強い性格だ。その彼女が初対面の相手にここまで言うのだから、少しはこの天使のことを信用してもいいのかもしれない。


 アリサは天使の側に膝をついて、


「えっと、リュー君も説得できたことだし改めて自己紹介するね。私は天壌アリサ。そしてこっちが神代龍也。あなたの名前も聞いていい?」


「……フィリアです」


「うん、よろしくね、フィリア、さん?」


「呼び捨てで呼んでもらって構いませんよ」


 呆れた顔で答えるフィリアと少し恥ずかしそうなアリサ。


「何か頼みたいことがあったら遠慮なく言ってね。私もあなたの役に立ちたいから」


 おい待てアリサ、と龍也が静止する前に、アリサは笑顔で言い切ってしまう。もちろんこのチャンスをフィリアが逃すはずもなく、


「そうですか、では一つ頼みたいことがあるのですが……」


 龍也は思わず無言で頭を抱えた。

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