第二章 邂逅③


「お待たせー、ご飯できたよー」


「おう、ありがとな」


 一人暮らし用の小さめのテーブルに急ごしらえとは思えない程の立派な料理が並ぶ。


「フィリアの分もあるから遠慮しないで食べてね。……あれ、そもそも天使って食事するの?」


「食事は可能ですが、この世界の食べ物を摂取してもほとんど聖気には還元されません。ですので私にはお構いなく」


「そうか」


 躊躇なくフィリアの前に並べられた皿を手元に引き寄せた龍也から料理を奪い返したアリサは、


「たとえ栄養にはならなくても、温かいものを食べるだけでリラックスしていいアイデアが浮かぶかもでしょ。だから、ね?」


「……いただきます」


 根負けしたフィリアが料理を口に運ぶ。

 彼女の純白の体の中で唯一の色素を孕んだ黄金色の瞳がわずかに揺れた。


「…………おいしい」


「そう、よかった」


「……ふん」


 呟くフィリアを見て、微笑むアリサと毒気を抜かれる龍也。


 しかし、そんな和やかな時間は長くは続かなかった。

 全員の食事とその片付けが終わり一段落したタイミングで、アリサは壁に掛かった時計を見ながらポツリと呟く。


「結構遅くなっちゃったね、今日はもう帰ろうかな」


「ああアリサ、今日はうちに泊まっていけ」


「ふえっ!?」


 何気ないそぶりで投げかけられた龍也の言葉に、顔を赤く染めて激しく動揺するアリサ。


「なに驚いてるんだ?うちに泊まるのだってこれが初めてじゃないだろ」


 実際この部屋には、彼女が泊まるのに必要なもの(アリサが勝手に持ち込んだ私物)は一通り揃っている。


「い、いや、そうなんだけど、リュー君から泊まっていけって言われたことなかったから、ついびっくりしちゃって……」


 確かに、今までは帰りたくない泊まっていくと駄々をこねるアリサに龍也が押し切られる流れが多かった。


「流石にこの時間にお前を一人で帰らせるわけにはいかないからな」


 普段は龍也がアリサの家まで送っていくのが常だが、今回はフィリアから目を離すことができないため、それも難しい。かといって彼女を引き連れて外に出れば面倒なトラブルが発生することは目に見えている。


 天使襲撃のリスクと引き換えに各種インフラに対する住民の負担がかなり抑えられているこの街には、貧困層や裏社会の人間などあまり出くわしたくない人種も一定数住んでいる。そんな治安の悪い街の夜道を、客観的に見て十分に美少女と呼べる幼馴染に一人で歩かせるわけにはいかない。


 龍也が胸中で決意を新たにしていると、


「じゃ、じゃあ今日は泊まらせてもらうね。私、お母さんに連絡してくる!」


 未だ頬に熱を残したアリサが、妙に軽い足取りで離れていく。

 彼女が離れた隙に、龍也は素早くフィリアに顔を寄せる。


「そういうわけだ。あいつにちょっかい出したらどうなるか、わかってるよな?」


 耳元で凄む龍也に、フィリアは呆れた顔でため息をつく。


「心配せずとも、彼女に手を出すつもりはありませんよ。過保護な番犬が見張っているうちは特に、ね」


「……ならいい」


 彼女から視線を外した龍也が、体を離そうと動き始めた時、


「──なにをしてるの?」


 背後から響いた低い声に、龍也の体がびくりと震える。恐る恐る振り返ると、目からハイライトの消えたアリサが無表情でこちらを見つめていた。


「ア、アリサ……?」


 彼女の雰囲気が激変した理由に心当たりがない龍也の背中に、なぜか冷や汗が浮かぶ。


「私がちょっと目を離した隙に、そんなにフィリアと体をくっつけてなにをしていたの?」


「い。いや、これはだな……」


 特に悪い事はしていないはずなのに、上手く口が回らない。彼女から放たれる圧倒的なプレッシャーのせいか。


「やっぱり──」


 うつむきながらぷるぷると震えるアリサに、思わず身構える龍也。


「やっぱり、フィリアにエッチなことするつもりなんでしょ!?リュー君のすけべ!変態!アンポンタン!」


「…………は?」


 緊迫した空気が急速に霧散していく。


「おいおい、なにバカな事言ってるんだよ。天使に手なんか出すわけないだろ。フィリア、お前も言ってやれ」


 ため息をついて対処を丸投げしてきた龍也に促されたフィリアは、ふむ、と少し考えてから口を開いた。


「これはあなたが解決すべき問題だと思うのですが……。まあいいでしょう。アリサ、彼は確かに私を脅してきましたが、それは私の身体を弄ぶ為ではありません。今日この家に泊まるあなたに、私が手を出さないようにと釘を刺すためです」


「フィリアが私に手を出す?……フィリアって女の子が好きなの?」


 未だ混乱から抜け出せていないアリサがとんちんかんなことを口走るが、彼女はそれを笑顔で黙殺する。


「そういう意味ではありません。私のことをまだ完全には信用していない彼は、私があなたに危害を加えるかもしれないと考えて、それを未然に防ごうとしたのです」


 ようやく事態を把握したアリサは、ゆっくりと龍也に振り返り、


「……そう、なのリュー君?私のことを守ろうとしてくれたの?」


「……まあ、そんな感じだ」


 潤んだ瞳で見つめられた龍也は、気恥ずかしげに視線を逸らしながら呟く。そんな龍也を見て自分の暴走に気付いたアリサはみるみるうちに顔を赤く染めあげ、


「ご、ごめんリュー君、私早とちりして、変なことばっかり言っちゃって……」


「勘違いすることくらい誰にだってある。気にするな」


「そ、そうだね、あはは……。あ、私まだシャワー浴びてなかった、リュー君お風呂場借りるね!」


「あ、ああ、分かった」


 恥ずかしさからかこの場からの離脱を図ったアリサを見送り、龍也は深いため息を漏らす。


「疲れた……」


「これがいわゆる修羅場というものなのですね。かつて読んだ人間の倫理に関する文献に書いてありました。体験するのは初めてでしたが」


「別に俺とアリサは付き合ってるわけじゃないんだから、修羅場もくそもないだろ」


「そうなのですか?私には彼女があなたに明確な好意を持っているように見えたのですが」


「……物心ついた頃から一緒にいるから、信頼はされてると思うけどな。あれは多分、昔俺が売った恩を返そうとしているだけだ」


 無表情のまま首を傾げて問いかけたフィリアに、龍也は顔をしかめてそう返す。


 しばらくの沈黙の後、薄い壁の向こうから少女がシャワーを浴びる音が漏れ聞こえてきた頃に、フィリアがゆっくりと口を開いた。


「……一つ、質問をしてもいいですか?」


「あ?何だよ、急に」


「……あなたは天使との戦いを止めるのは反対ですか?」


 フィリアの問いに、龍也は思わず黙り込む。


 そう、何の前触れもなく絶滅の淵に立たされた人類の中には、天使に並々ならぬ憎悪を抱いている者も珍しくはない。住む場所や今までの生活、果てには大切な者までを理不尽に奪われた人々が侵略者を恨むのは至極当然の流れだと言える。そういった人々の中には、天使との和平など言語道断、敵陣営に一定の損害を与えるまでは戦争を終わらせるべきではない、いっそ奴らを根絶やしにしてしまえと主張する過激派も存在する。


 龍也も七年前の大神災で故郷と母親を失い、今も最前線で天使と戦い続けるという厳しい境遇に置かれている。普段はあまり表に出さないが、天使に対して並々ならぬ憎悪を抱いていたとしても不思議ではない。


 しかし龍也はあっさりとした様子で、


「いや、止められるならさっさと止めるべきだろ。俺だっていつ死ぬか分からない殺し合いなんていい加減終わりにしたいし。まあ、それが実現可能かどうかは分からないけどな」


 フィリアが驚いたような顔で問い返す。


「あなたは我々を恨んではいないのですか?あなただって様々なものを奪われてきたでしょうに……」


「そりゃ、今でも天使なんて大っ嫌いだよ。お前らがいなけりゃ今頃もっと穏やかでありふれた人生ってやつを送ってただろうし、毎日のように死にそうな目に遭うことも、周りから化け物扱いされることもなかっただろうしな」


 そっと目を伏せるフィリアを横目に、龍也はでも、と強く言い切る。


「でも、本当に大切なものはまだ失くしていない。失くさないように必死に足掻いてきた。それを失くさない限りは、他のことなんて全部些事だ。だからお前ら天使のことも今はまだそれほど恨んじゃいねえし、憎むつもりもねえよ。……俺の大事なものがお前らのせいで奪われる、なんてことがない限りはな」


「…………」


 果たしてフィリアは気付いているのだろうか。龍也の大事なものというのが周囲の親しい人々や自らの誇りや信念といった曖昧な対象ではなく、彼の側に常に寄り添っている一人の少女のことを指しているということに。


「とにかくそういうわけだから、別にお前のやろうとしてることに反対するつもりはねえよ。無理のない範囲でなら協力する」


「……ありがとう、ございます」 


 そう言って微笑んだフィリアに、龍也は不思議そうに尋ねる。


「……お前、このままだとあと三日で消滅するってのに、随分と落ち着いてるな。天使は死の恐怖ってやつを感じないのか?」


「…………そうですか、あなたたちはまだ知らないのですね……」


 物憂げに呟くフィリアと、眉をひそめる龍也。


「お前ら天使は聖気を使い果たすととあっという間に消滅しちまうから、こっちはお前らの生態なんてほとんど解明できてないんだよ。もったいぶってないで早く説明しろ」


 そう急かした龍也を見つめ返すフィリアの瞳に浮かんでいたのは同情、それとも憐憫の感情だろうか。


「天使に死の恐怖を感じる機能はありません。何故なら、天使に死という概念は存在しないからです」


「────は?」


 龍也の思考が凍りつく。だってそれは、もし彼女の発言が龍也の意図した通りのもので、そこに嘘偽りが含まれていないとしたら──。


「基本的に天使には、死という事象は発生しません。肉体が破壊されようとも、霊核が無事である限り天界で何度でも再構成されます。……天使の霊核が破壊される時、それは幾度も再構成を繰り返したが為に霊核が磨耗し消滅する場合と、自分よりも上位の天使に粛清、または断罪された場合のみです」


「……その霊核っていうのは、天使が臨界した時の急所になる、あの胸の核とは違うのか?」


「ええ。あの核を人間の心臓に例えるならば、霊核はいわば魂。たとえ肉体を物理的な手段で完全に破壊したとしても、霊核には傷一つ付きません。最上位の悪魔の一部は霊核に直接作用する術式を保有しているといった噂話を聞いたことはありますが、所詮は与太話、真偽は不明です」


「…………道理で、いくら倒しても無限に湧き出てくるわけだ」


 内心激しく動揺しながらも龍也はなんとかそう返す。


(おいジーク、どうせ覗き見してるんだろ、ちょっと出てこい)


(カカカ、中々に面白い茶番だった)


 龍也の目を通してこっそりと一連の流れを見ていたらしいジークが脳内で嗤う。


(俺としては嫌いじゃないぜ、ああいう茶目っ気は。あいつが天使じゃなかったら攫ってコレクションに加えたいくらいだ)


(お前のイカれた趣味はどうでもいい。それよりも、あいつの言ってることは本当なのか?天使は戦闘では死なないってやつ)


(ん、ああ、本当だぜ。言ってなかったか?)


(…………聞いてねえよ、ちくしょう)


 突然押し黙った龍也を見て、何かを察して待っていたフィリアがゆっくりと口を開く。


「……これで分かったでしょう?あなた達がいくら天使を討伐しようとも、彼らが諦めない限り戦いは終わらない。そして、彼らはあなた達人類が最後の一人になるまで絶対に止まらない」


「……お前はもう寝ろ。少しでも聖気を温存して消滅するまでの時間を引き延ばせ。お前が本当にこの戦いを止める気なら、今は自分が生き残ることだけを考えろ」


 無理矢理会話を断ち切った龍也は、フィリアから顔を背ける。


 黙って言われた通り敷かれた布団の上で横になったフィリアを横目に、龍也は改めてジークに話しかける。


(……お前、さっきはシラを切ってたが、本当はわざと伝えなかっただろ)


(まー、そりゃーなー。それで人間が天使に抗う気力を無くして、滅亡を受け入れちまったらつまらねーだろ)


 こいつらはいつもそうだ。口ではなんだかんだ言いつつも、結局は自分たちが愉しむことしか考えていない。人間に手を貸しているのも、面白いおもちゃを壊されたくない程度の感覚でしかないのだ。


(……お前達悪魔には無いのか?この戦いを終わらせるための手段ってやつは)


(おいおい、俺たちはお前らが二足歩行始める前から殺し合い続けてた間柄だぜ?そんなもんあるわけねえだろ)


(……だろうな)


 この快楽主義者共は仮にその手段を持っていたとしても、おそらくは使おうとはしないだろう。彼らにとっての最大の快楽は殺し合い、血湧き肉躍る闘争なのだから。


(もういい、難しいことを考えるのはやめだ。ひとまず、襲ってくる天使は一匹残さず返り討ち、それでいいはずだ)


(おう、それでいいんじゃね?それが今の状況での最適解だろうし)


「リュー君、お風呂あがったよー」


「おう、じゃあ俺も入ってくるわ」


 お気に入りのモコモコパジャマを着て出てきたアリサに、龍也は努めて普段通りの声音になるよう意識しながら返事をする。


 すれ違った際にふわっと香った甘い匂いにどきりとしつつ、龍也は風呂場に入り手早く身体を洗っていく。


(……同じシャンプーとボディソープ使ってるはずなのに、なんであんなにいい匂いがするんだろうな)


 暗い考えを振り払うために、意識的にしょうもない方向に思考を走らせていると、


(そりゃあ、あの嬢ちゃんがとびっきりの美人だからに決まってんだろ。美女と美少女はいい匂いがするってのは太古の昔から定まってる自然の摂理だからな)


(うるせえ、お前は引っ込んでろ)


(カカカ、相変わらずあの嬢ちゃんのことになると一気にノリが悪くなるな。お前の独占欲も大したもんだ)


 そう嘯きながらも、妙なところで素直なジークはあっさりと奥底に潜っていく。

 龍也が風呂場から出ると、そわそわした様子のアリサが、


「あっ、リュー君。あのね、この部屋って布団が二組しか無いでしょ?だからフィリアに私の布団を使ってもらって、それであの、今日は私、リュー君の布団にお邪魔させてもらうなんてことは、えっとその……」


 頬を赤く染めたアリサは何かを期待するかのような目つきで恥ずかしそうにそう申し出てくるが、龍也は半分上の空のまま、その申し出を斬って捨てる。


「ん?ああ、俺は今日寝ないでフィリアを見張るつもりだから、布団は一人で使って大丈夫だぞ」


「そ、そんなぁ……」


 渾身のアタックを見事にスルーされ崩れ落ちるアリサ。


 そんな二人の様子を薄目を開けて眺めていたフィリアは、やれやれとため息をついて瞼を閉じた。

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