第一章 綻ぶ日常③
避難警報が解除された、夕暮れの街の片隅。駅前の繁華街の裏通りにひっそりと佇む寂れた喫茶店に、本日二人目の客が訪れていた。
「──いよう。待ってたぜ、龍也」
この喫茶店唯一のお得意様、デモニアである龍也と行政の仲介役を務めている代行者の平賀辰巳がカウンターに腰掛けたまま軽く手を振る。
挨拶を無視して平賀から一つ席を空けて座った龍也の前に、水の入ったグラスが置かれた。
「……どうも」
この店の主である禿頭の老人に軽く頭を下げて、龍也は水を飲み干した。
「相変わらず、俺にだけ冷たくねぇ?」
「報酬」
無精髭に擦り切れたコート、指輪にピアスにネックレス。趣味の悪いアクセサリーをジャラジャラと揺らしながら隣で不満を漏らす年齢不詳の代行者に、龍也は自身の要求を突きつける。
「マセガキめ。……ほれ」
カウンターを滑ってきた茶封筒の中身を確かめると、龍也は無言で席を立った。
「いやいやいや、流石にちょっと待て!」
「……なんだよ」
不機嫌そうに振り返った龍也に、平賀は必死に訴える。
「今回はレアケースだったじゃん?天使が市街地に逃走するとか本来はありえないし。普段と違うことが起きたらとりあえず報告!ホウ・レン・ソウは社会人としての常識ですよ?」
「報告なんてしなくても、どうせ事情は把握してるんだろ?人のプライバシーガン無視で監視してるんだから」
国家に厳しく統制されているデモニアとしての立場を皮肉った龍也の返答に、平賀はわざとらしく視線を逸らし、
「いやまあ、そうなんだけどね?一応こっちにも上に報告しなきゃいけないっていう面倒臭い義務があるんだわ。だから体裁を整えるために現場の人間から直接報告を聞く必要があるって訳。ほらほら、市街地に逃走した天使がどうなったか、おじさんに教えて?」
「……チッ」
わざと反抗的な態度を取ってもそれを意に介さず飄々とした態度を崩さない平賀に、龍也は思わず舌打ちを漏らした。彼との付き合いも長くなるが、一向に本性を見せない平賀の態度こそが、龍也が彼を嫌う大きな原因の一つだ。
「……天使は俺がとどめを刺す前に聖気切れで消滅したらしい。奴の傷から漏れ出ていた聖気を辿ったが、路地裏で痕跡が途絶えていた」
「ホイホイ、了解っと。……ちなみに聞くが、その天使が追跡を撒くために、自分が消滅したように偽装したって可能性はあると思うかい?」
「可能性はゼロじゃない。奴がくたばったところを直接見た訳じゃないからな。……まあ、あいつらがそこまで生に執着するとは思えないけど」
事前に一通りの可能性を検討していたのか、淀みなく答える龍也を見て満足げに頷いた平賀は、
「ああ、そこは俺も同感だな。ただ、今回の天使は今までとちょっと違った性質を持っていたみたいだからなあ。基本、奴らは自分の命に頓着しない、殉死上等の特攻野郎どもの集まりだ。敵前逃亡した天使なんて前代未聞だよ、全く」
「一応警戒はしておく。ただ、もし奴が自分の聖気を徹底的に抑えて俺の探知を逃れているとしたら、傷の手当てどころか、生命維持もまともにできないはずだ。長くても数日で消滅するだろうな」
「了解っと。追跡の時といい、今回といい、あの天使が逃げ出した時に手傷を負わせられたのは大きいな。良い機転だったぜ、龍也」
「……市街地への侵入を許した時点で俺の負けだ。次はもっと上手く片付ける。もう用が無いなら帰るぞ、腹が減った」
「おう、後処理はいつも通り俺がやっといてやる。ご苦労さん」
振り返らずに出て行った龍也を見送った平賀は、グラスに残ったウイスキーを飲み干し、懐からタバコの箱を取り出した。
「……パチンコも競馬も当たらないくせに、こういう妙な胸騒ぎばかり当たっちまうのは勘弁してほしいねぇ……」
紫煙とともに吐き出された平賀の呟きは、彼がこの店を訪れてから一度も口を開いていない店主以外の誰の耳にも届かずに消えていった。
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