第一章 綻ぶ日常①


 春休み、それは学生に与えられた数少ない安寧の日々。


 神代龍也も今春から高校生になる健全な学生として、朝から元気一杯に惰眠をむさぼっていた。


 カンカンカン、とオンボロアパートの外階段を上る軽快な足音が響く。足音はいつ底が抜けてもおかしくない錆びた廊下を渡り、龍也の住む204号室の前で止まった。

 ガチャリ。足音の主はチャイムも押さずに、鍵の掛かった玄関扉を難なく突破する。


「リュー君、おはよー」


 不法侵入者は玄関から家主に一声かけると、律儀に脱いだ靴を揃えてから短い廊下を三歩で渡り、居間兼寝室に顔を出した。


「もー、リュー君いいかげん起きて!もう9時だよ!」


 母親のような小言を放ちながら侵入者が慣れた様子で部屋を横切り、締め切られていたカーテンを勢い良く開け放った。彼女の肩甲骨の辺りまで伸びた金髪が陽光を反射してキラキラと輝く。


 不法侵入者、もとい家主である少年の幼馴染の少女、彼女の名前は天壌アリサ。端正な顔立ちや、母方から受け継いだ欧州の血を証明するかの如く煌めくブロンドの髪に、日本人離れした早熟気味のプロポーション。街中を歩けば十人中十人が思わず振り返るような、人を惹きつける要素が詰め込まれた一六〇センチ前後の身体。


彼女は差し込む朝日や彼女の声にも全く反応を示さず、布団にくるまり二度寝の快感に酔いしれている少年の様子を見て、不満げに頬を膨らませる。


「……リュー君、早く起きないと朝ごはん作ってあげないよ?」


「…………んー」


 朝食を人質に取るという残虐非道な脅迫に屈した少年は、しぶしぶといった様子でむくりと起き上がった。一応、少女の声は聞こえていたらしい。


 目を閉じたまま上半身を起こした少年の名前は神代龍也。ボサボサの黒髪に一七〇センチに届かない程度の一五歳の少年としては平均的な身長。強いて特徴を挙げるのであれば、人を殺していそうとまで言われることもある鋭い目つきと年中固定の不機嫌面だろうか。もっとも、寝起きで顔面がふにゃふにゃに溶けている今はそれらの特徴は影を潜めているが。


「おはよう、リュー君」


「………………」


「おはよう、リュー君」


「…………んー」


「おはよう、リュー君」


「……おはよう、アリサ」


 上半身を起こしたまま再び三度寝エデンに旅立とうとする少年を、アリサは容赦無く現世に縫いとめる。


「ほら、顔洗ってきて。あと寝癖も直して」


「……ふぁい」


 ふらふらと洗面所に消えていく少年を見送り、アリサは素早く朝食の準備を進める。

 なんとか眠気を振り払い洗面所から戻ってきた龍也がちゃぶ台の前に座った時には、既にトースト、目玉焼き、ベーコン、サラダという簡素ながら腕の良さが窺える朝食が二人分並んでいた。


「「いただきます」」


 胡坐をかいて座る龍也と、綺麗な正座で座ったアリサは向かい合ったまま黙々と箸を動かす。

 皿が半分ほど空になった時、アリサが口を開いた。


「ねえリュー君。春休みに入る前にした約束、覚えてる?」


「ん、約束?……ああ、一緒に水族館に行くってやつか」


 そういえばそんな約束もしたなぁ、とトーストを頬張りながら龍也は頷く。


「春休みは二週間とちょっと、さてリュー君、休みはあと何日?」


「えっと……、あと一週間だな」


 そう、とアリサは重々しく頷き、


「春休みが始まったと思ったらいきなりリュー君が灰村さんのところの訓練合宿に行っちゃったから、私まだリュー君と全然遊べてない!」


「い、いやぁ、俺もあんな暑苦しい連中のとこの合宿なんて行きたくなかったけどさ……。あれは最早誘拐だっただろ……」 


 プクッと頬を膨らませてにらんでくるアリサから顔を逸らし、龍也はもごもごと言い訳を述べる。


「やっと春休みになって、リュー君と思いっきり遊べると思ってたのに……」


俯いたアリサが拗ねたような声でポツリと呟いた言葉によって、龍也の無条件降伏が確定した。


「……これ食い終わったら出かけるぞ」


「えっ!?」


 雰囲気を一変させ、目を輝かせるアリサに気圧されながらも、


「だ、だからこれから水族館に行くって言ったんだよ。約束は約束だしな」


「本当!?じゃ、食べ終わったらすぐ行こう、私もう準備できてるから!」


 よく見れば、アリサの装いは普段のラフな私服ではなく、外出用の気合の入ったものだった。

 龍也はようやく彼女に一芝居打たれたことに気付くが、時既に遅し。大勢は決している。


 実の所、龍也も表面上はしょうがねえなぁ、といった表情で取り繕っているが、内心ではかなり浮き足立っていた。

 物心ついた頃から一緒にいるほぼ家族同然の幼馴染とはいえ、ここ数年でにわかには信じられないほど綺麗になった同い年の少女と一緒に出かけるとなれば、十五歳の思春期真っ只中の少年としては平静を保つのは少し難しい。


 朝食を終えた二人がいそいそと食器を片付けていると、棚の上に置いてあった龍也の携帯が突然震え始める。


「リュー君、電話ー」


「んー」


 無警戒にそれを開いた龍也は、発信元の名前を見た瞬間、即座に電源を切った。


『よお、龍也。楽しいお仕事の時間だぜー?』


「なんで電源切ったのに繋がるんだよ……」


 うんざりとした顔で呻く龍也。


『非常時に繋がらないと困るからな。悪魔憑きデモニアの携帯には代行者からの電話が必ず通じるような小細工がしてあるんだよ』


「プライバシー君をもっと尊重してやれよ。無視されすぎて部屋の隅で泣いてんぞ」


『残念ながらプライバシーなんて言葉は国のデモニア管理マニュアルには一回も出て来ねえよ』


 俺が悪いんじゃない、国が悪いんだと嘯く平賀に、苦虫を噛み潰したような顔で龍也は言い放つ。


「とにかく、今日は先約があるんだ。天使の処理は自衛隊にでも要請を出しておいてくれ」


 平賀は困ったような声で、


『あー、申し訳ないんだが龍也。自衛隊は今、先日の大規模臨界の後処理で他所に戦力を回せない状況だ。つーことでドタキャンは無理。アリサちゃんとのデートはまたの機会にしてくれ』


「……アリサとデートなんて一言も言ってないだろうが……」


『お前にそれ以外の先約なんて入らんだろ。じゃー、そんな訳でよろしくー』


 逃げるように通話を切った平賀を脳内でミンチにしながら、龍也は溜息を吐いた。

 振り返ると、外で流れる避難警報を聞いて大体の事情を察したのか、アリサが困ったような顔で笑っていた。


「あはは……、それどころじゃなくなっちゃったね。流石に、こればっかりはしょうがないよ」


「……ごめんな」


 本人は自然に笑えていると思っているのかもしれないが、傍から見ると無理して表情を作っているのは一目瞭然だった。


「じゃあ、今日のお出かけは延期ってことで!埋め合わせは期待してるよ?」


「ああ、任せろ」


 せめてそれぐらいは、と龍也はしっかりとアリサを見つめて頷く。

 彼女の少し潤んだ瞳を直視してしまい、龍也の心臓が思わず跳ねた。鼓動を落ち着けるために慌てて視線を逸らす。


「そ、そろそろ行くか。シェルターまで送ってく」


「ううん、大丈夫。それより、リュー君は早く行かなきゃ。リュー君が少しでも遅れたら大変なことになっちゃう」


「……そうか。じゃあ、ちょっと行ってくるわ」


 アリサに背を向けて玄関に向かおうとした龍也の背中に、トン、と軽い衝撃が走り、慣れ親しんだ温もりが広がった。


「……気をつけてね」


「……ああ」


 背中に顔を押し付けたアリサの、少しくぐもった声が鼓膜を揺らす。

 いつからか、龍也が戦地に向かう前に行われるようになった、二人の儀式。お互いに成長し子供の頃のようなスキンシップを控えるようになった後も、この儀式だけは途切れることなく続いていた。


 数秒後、いつものようにアリサは抱擁をとき、一歩下がる。


「──行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 何回も繰り返してきたルーティーン。

 龍也が扉を開け欄干に身を乗り出すと同時に、彼の背中から魔力で編まれた半透明な翼が飛び出した。躊躇無くアパートの二階から飛び出した龍也は、一度の羽ばたきで空気を掴み、一直線に大空に向かって舞い上がった。

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