第1話  秘密の地図

 1



  富士山。


 静岡県と山梨県にまたがる、言わずと知れた日本一の高さを誇る山。


 日本で一番高いという点もさることながら、その景観の美しさは日本の自然美の象徴の一つとして広く知られている。その雄大さにあやかっているかは定かでないが、三七七六メートルの標高に三七七六みななろうという語呂合わせが用いられているほどだ。


 そんな富士山の西側に大沢崩れという大きな侵食谷がある。


 斜面が縦に抉り取られたような深い谷で、富士山を西側から眺めれば、肉眼でもはっきりと見て取れるほどの規模である。

 この谷を源流とするのが大沢川。

 普段は水の流れは全くない枯れた川だが、下るにつれて生活用水や支流が流れ込み、潤井うるい川と呼ばれる一級河川を成している。


 北西部から街の中央を斜めに横断するように流れるこの川は、いくつもの支流を束ねながら富士市へ入り、やがて田子の浦港から駿河湾へ流れ込む。


 その潤井川にかかる橋を渡り、街の西部に位置する小高い山を登り詰めると、やがてその中腹に源道寺げんどうじ家が見えてくる。


 和洋折衷の大きな屋敷。目の前の斜面には展望テラスが張り出しており、そこに立てば、天高くそびえる富士の山とそのふもとに広がる富士宮ふじのみや市を一望できることだろう。広い庭には池があり、橋が架かっている。その庭の奥は背後の山へと続いていた。


「ただいま帰りました」


 源道寺げんどうじ朝華あさかは我が家に帰りついた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 お手伝いの石川いしかわが奥から出迎えてくれる。


「お食事になさいますか?」


「はい、お願いします」


 朝華は手を洗ってから食卓についた。


 いつも通りの、一人ぼっちの食事。


 父は大手医療機器メーカー〈ゲンドウジ〉の社長、母は弁護士という仕事の関係上、両親は多忙で家を空けることが多く、朝華は一人きりで過ごす日の方が多かった。

 姉も二人いるのだが、どちらも年が大きく離れており、すでに社会に出ていたため、こちらもなかなか会えずにいる。家にいるのはお手伝いさんと認知症が始まりかけている高齢の祖父だけで、祖父は一日のほとんどを自分の部屋で過ごしている。


 我が家にいるのに、朝華は寂しかったのだ。


「ご馳走様でした。美味しかったです」


 石川にお礼を言って、朝華はお風呂に向かった。


「ふぅ」


 湯船に浸かると、今日一日の疲れがほぐれていく。今日もたっぷり遊んできた。


 今日は友達の未夜みや眞昼まひると一緒にアイス強奪事件を解決してきたのだ。といっても、事件を解決に導いたのは未夜の推理によるものだったが。


「未夜ちゃん、すごかったなぁ」


 寂しかったのはすでに過去のことである。


 今の朝華には、家での寂しさすら忘れてしまうような特別な存在がいた。


ゆうにぃ……」


 有月ありつき勇。高校三年生の男の子で、いつも遊んでくれる優しい兄のような存在。

 彼のことを考えると、心がぽわぽわする朝華であった。


 風呂から上がり、髪を乾かして歯磨きをした。湯上がりの体が冷えないようにベッドに潜り込むと、もう眠たくなってしまった。


「ふわぁ」


 時刻はまだ七時半である。寝るにはちょっとだけ早い時間だ。両親が帰ってくるのはだいたい午後十時前後。小学校一年生の朝華にとって、その時間まで起きていることは難しい。


 ベッドの中で丸まりながら、明日は何をして遊ぼうか、と考えるのが朝華の楽しみだった。



 *



「はっ」


 すっかり、うとうとしかけていた。夢の世界に飛び込む一歩手前だった。


「うぅん」


 本格的に眠ってしまう前にお手洗いに行っておかなくては、と朝華はベッドから降りる。用を済ませて廊下に出ると、祖父とばったり会った。


「ん、愛華あいかか」


「違います、お母さんじゃないですよ。朝華です」


「ん、ああ、そうだったなぁ」


 祖父の源道寺雲雀ひばりは〈ゲンドウジ〉の名誉会長である。長い白髪にやせこけた頬。鋭い鉤鼻と切れ長の瞳。若い頃は鋭利な威圧感をまとっていただろうと想像できる。


 性格は寡黙で感情をめったに表には出さない。


 朝華が物心つく前から認知症の気があり、朝華のことを母や姉だと間違えることはしょっちゅうだ。名誉会長という立場にあるが会社に赴くことはほとんどなく、自室でぼうっとテレビを見ているか、たまに庭を散歩するなどしてのんびりと余生を過ごしている。


「ほっほっほ」


「おやすみなさい、おじい様」


「おやすみ、愛華」


「違いますよー」


 のそのそと部屋へ向かう雲雀の背中を眺めていると、朝華はあることを疑問に思った。


 雲雀はいつも――会うたびにといっていい――朝華のことを愛華と間違えるけれど、そんなに自分は母親と似ているのだろうか。


(若い頃のお母さんは、どんな感じだったんだろう)


「……」


 一度気になりだしたら止まらないのが子供の好奇心である。


 朝華は両親の寝室にこっそりと入った。まだ父も母も帰ってきていない。今がチャンスだ。


「たしか、この辺に……」


 入ってすぐ右手に、天井まで届こうかという大きな書架がある。ここは主に父の蔵書がしまわれており、古い小説や辞書のように分厚い本などがびっしり詰め込まれていた。

 その中に、家族のアルバムが収められている一角があるのを朝華は知っていた。


「んしょ」


 ドレッサーの椅子を書架の前まで押し、その上に乗った。中段の左端にアルバム類が収まっている。


「どれかな」


 両親の卒業アルバムや朝華を含む子供たちの成長アルバムは以前目にしたことがあった。欲しいのは母親の子供時代のアルバムだ。とりあえず、一番装丁が古そうなものを引っ張り出してみる。


「んー?」


 中を検めてみると、それは一番上の姉の小学校のアルバムであった。


「これは……違う」


 次にその隣にあったアルバムを取り出して開いてみる。これも一番上の姉のアルバムで、中学校の時のものだった。


「違うなぁ」


 それから朝華は全てのアルバムを一冊ずつ確認してみたが、目的の母の子供時代のアルバムは見つからなかった。

 それもそのはず。

 朝華は知らなかったが、本棚にあるアルバムは全て子供たちのアルバムで、両親のアルバムはまた別の場所にしまわれているのだ。


「むー」


 椅子と床に広がったアルバムを全て元の場所に戻し、朝華は考える。


 ここにないということは、別の場所にあるはず。


「……あそこかな」


 朝華が目をつけたのは、部屋の奥の扉だ。その中は押し入れになっており、二段に分けられた収納スペースには、段ボールやプラスチックのケースなどが雑多に詰め込まれていた。


 どこに何が入っているかはまるで見当がつかないが、とりあえず目についた一番手前の半透明のケースを引き出してみる。


「うんしょ」


 ふたを開けてみると、何やら平べったい箱がいくつも積み重ねて収納されていた。その一番上の箱を開けてみる。すると、


「なんだろう」


 そこには折りたたまれた紙が入っていた。経年劣化で黄ばんでいて、かなり古いものだと推測できる。


「えっ!?」


 朝華は目を丸くした。


 紙の左上に記された東西南北を示す方位記号と、簡略的に描かれた街。それ以外にも、色々な記号や文章が書かれている。それは紛れなく地図であった。


 なんの地図だろう。


 少なくとも普通の地図ではないことだけは確かだ。


「……」


 朝華は生唾を飲み込んだ。もしかすると、これはではないだろうか。だとすると、とんでもないものを見つけてしまった。


 そういえば今度はトレジャーハンターをやりたい、と今日未夜が言っていたことを朝華は思い出した。


 そっと地図を折り畳み、胸に抱く。


 本来の目的は宝の地図の衝撃に上書きされてしまった。朝華はできる限り物音を立てずにケースを押し入れに戻すと、入口の扉を少しだけ開け、周囲に人がいないことを確認してからそそくさと廊下に出た。


 素早く自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込む。


 この地図を見せれば、きっと皆喜んでくれるに違いない。


 明日、皆に見せてあげよう。


 その日、朝華はあまりの興奮でなかなか寝付くことができなかった。

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