〝知ってみたい〟

「………っ」



 上がりそうになる呼吸を抑え、ユーリはぐっと眉根を寄せた。



 振り下ろした矢は実のうなじ辺りをかすり、地面に深々と突き刺さっていた。



 矢がかすった実の肌に赤い線が走り、瞬く間に血が滲む。

 それでもなお、実は目を覚まさない。



 それほどまでに、疲れているのだろうか。





 ―――いや、そんなわけがない。





「……なんで、けなかった。」



 低くユーリが訊ねると、それまで穏やかに眠っていたはずの実の口元が、緩やかな弧を描いた。



「別に、殺意は感じなかったから。」



 まぶたの奥から、薄茶色の瞳が現れる。



 ガラス玉のように透き通って見えるその瞳には、こちらに対する猜疑さいぎ心も警戒心も全くなかった。



「どうしたの? 顔色悪いけど、眠れない? それとも、俺の力がしんどいかな? 早いとこ慣れた方が楽かなって思って、あえて腕輪を外したまんまなんだけど……」



 あと少しでも軌道が逸れていたら、死んでいたかもしれないというのに。

 この期に及んでまで、そんな風にこちらの心配をするのか。



 体勢のせいで間近から実のことを見つめる形となり、自分の中にある疑念が余計に煽られてしまう。



 自分のことが小さく見えて仕方ない。



 葛藤かっとうに揺れる自分の顔がみにくく見えてしまうくらい、自分の顔を映す実の瞳があまりにも綺麗すぎて―――



「君は、よく分からない人だな。」



 溜め息混じりにぼやき、ユーリは地面から抜いた矢を放り投げた。



「何それ? 俺、なんか試されてたの?」



「そんな大袈裟なことじゃない。ただ、僕がイメージと実物の違いについていけないだけだ。」



 実にくるりと背を向けたユーリは、視線の固定先を探して、ふと頭上を見上げた。

 そこに広がっていた星空は、地面の花が放つ光と合わさってとても幻想的に見える。



「君たちの中に〝鍵〟がいるかもしれないって、セツにそう伝えたのは僕だ。入山券を買いに来た君たちを見て、直感的にそう思ったんだ。」



 なんだか不思議な気分だ。

 この空を見ていると頭がぼうっとして、口が勝手に動く。



「〝鍵〟がこんな歳になるまで、殺されずに放置されるわけがない。多分これまでに、何度も殺されかけては窮地を脱してきたんだろうって、そんな想像はしてた。君の連れの警戒ぶりを見た感じ、この想像は正しいんだろうな。だからてっきり、君は彼ら以外の人間なんて嫌いなんじゃないかって……そう思ってたんだ。」



「………」



「そしたら普通に僕のことを助けるし、僕を森の外に安全に連れていくって言うし、今だって僕のことを疑ってないみたいだし。……ああもう!」



 ぐしゃりと前髪を掻き乱し、ユーリは仰向けになって地面に倒れる。



「ことごとく予想を外されて、戸惑わないわけないだろう。どうしてくれる。」

「えー…。それって、俺のせいなの?」



 なか自棄やけになって横目に実を睨んで抗議すると、実は理不尽だと言いたげに唇を尖らせた。



「普通じゃないのに、普通すぎて困るんだよ。」

「………」



 そこで、実はまた口を閉ざす。

 そんな実の反応に、少しばかり心がざわついてしまう。



 実は否定しない。

 自分が彼のことを〝鍵〟かもしれないと言ったことも。

 普通じゃないという、一方的な暴言も。



 どうせなら、ごまかしでもいいから否定してくれた方がこちらは楽なのに。



 ―――何故、君は一切偽らないのか、と。



 居心地が悪くて、八つ当たりのようにそう問いそうになって、実の表情を見た瞬間に何も言えなくなった。



 黙って地面に視線を落とす実は、自分の前で初めて腕輪を外した時のような、諦感に満ちた表情をしていたのだ。



 そう思われるのは仕方ない、と。



 自らに対する世間の目を受け入れた、どこか悲しげで寂しそうな顔だった。



 自分には分からない。

 一体どれだけの経験をすれば、そんな表情ができるほどまでに物事を悟れるのかなんて。



「………なあ……」



 なんだか、頭の重さがどんどん増してきた気がする。

 それでも、口は言葉をつむぐことをやめようとしない。



 ―――少し、彼の事を知ってみたい。



 自分の中でざわつく疑念が、ふと湧いたその気持ちを一生懸命後押ししようとしているのがなんとなく分かった。



「あの子は、なんで君にあんなことを訊いたんだ…?」



『実は今、ちゃんと幸せ?』



 無邪気な口調で告げられた、重たげな問い。

 脳裏にちらついた記憶を頼りに、特に意味もなくそんなことを訊ねてみる。



 具体的にどのこととは言わなかったものの、察しのいい実は、補足を加えなくとも質問の意味を正確に捉えたようだった。



「……さあね。ただの興味じゃない?」



 そっけなく答えた実の表情に、明らかな影が差した。



「〝今は〟ってことは、少なくとも昔は幸せじゃなかったってことなのか?」

「それも、よく分からないなぁ。」



 やけに早く答えを返してきた実は、眉を下げて微笑んだ。



「幸せとか不幸とか……そんなこと、考える暇もなかったから。」



 ぽつりと彼の口から零れた、空虚さを伴った小さな囁き。



 その一言の中に、彼がこれまでにしてきた経験のすさまじさが、これでもかと詰め込められているような気がした。



 もっと何かを話さなきゃ。

 この程度じゃ、胸のざわめきが収まらない。

 そう思うのに……



「そう…か……」



 その言葉を最後に、意識は真っ暗な闇の中に落ちていってしまった。


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