葛藤の夜

 ここは静かだ。

 虫の声や木々のざわめきすら遠のいた静寂の中、時おり花が揺れる柔らかな音だけが優しく耳元をくすぐる。



 ここは、とても優しい場所。

 なんとなく、それは感じている。



 それでも、この場で安心して眠ることなんてできるはずもなかった。



「………」



 どうしても眠れずに目を開いたユーリは、静かに身を起こした。



 これが全部夢ならいい。

 眠って起きたら、いつもどおり家にいるんじゃないか。



 何度か、そんな気持ちが胸をよぎった。

 だがそんな都合のいいことがあるはずもなく、今は眠るというささやかな現実逃避もできずにいる。



 原因なんて、一つしかなかった。



 辺りを見回すと、ここから十分に離れた場所で横になる実が見えた。

 彼は毛布代わりにかけている上着にくるまり、すやすやと平和そうな寝息を立てている。



 実はあの少女がいなくなると、持っていたかばんから取り出した軽食と飲み物をこちらに投げるや否や、自らは早々に横になって眠ってしまったのだ。



 よほど疲れていたのだろう。

 だが、いささか能天気すぎるように思える行動だ。



 まるでこちらのことなど微塵も疑っていない様子で、無防備な姿をさらしている実。



 暢気のんきなことだ。

 約束したとはいえ、こちらがいつ命を狙うとも分からないのに。



「………」



 ふと指先が、矢筒にしまっていた矢の羽に触れる。

 そのまま矢を一本取り、息を殺して立ち上がる。



『これで、さっきの条件の意味が分かったでしょ?』



 本当にそのとおりだ。

 こんな人間には、今まで会ったことがない。



 確かに初めて実を見た時から、他の人とは何かが違うと思っていた。

 そして彼が腕輪を外しただけで、違和感が一気に畏怖いふへと変わった。



 格が違うとは、まさにこのことを言うのだろう。



 問答無用で、体がすくみそうになる。

 それほどまでに、実が放つ魔力は強力すぎた。



「………」



 そっと実の傍に近寄って膝をつき、ユーリは矢を握り締める。



 〝鍵〟は殺さなければならない。

 それが、世界の平穏を守る一番の道。



 〝鍵〟の運命を背負った本人も、それを理解しているだろう。

 きっと、自らその命を差し出すはずだ。



 幼い頃から、ずっとそう教えられてきた。

 特に生まれ持った能力が能力だった自分はセツと共に、島を守るべき人間として、それこそ洗脳のように、この教えを刷り込まれてきた。



 今まで、その教えを疑ったことはない。

 一人を犠牲にすることでその他が助かるなら、これは仕方ないことだし、自分がもし〝鍵〟の立場ならそうすると思う。



 そう思って生きてきたはずなのに、今の自分は……彼を前にして迷っている。



 彼がいないと、この森から抜け出せないから?



 もちろん、それもある。

 でも、それだけじゃない。



 〝鍵〟は忌々しい存在。

 自分は、その大元の概念から疑い始めている。



 だって、自分が見た彼の姿は、あまりにも―――



「………」



 大丈夫。

 自分はちゃんと、自分の責務を分かっている。

 つい数時間前までは、躊躇ためらいもせずに彼に向かって矢を放てていたではないか。



 やることは簡単だ。

 特に実が完全に油断しきっている今なら、無駄な抵抗はされまい。



 ユーリは静かに矢を振り上げた。



 そう。

 簡単なことだ。



 こうやって、矢を振り下ろすだけで―――


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