島に伝わるしきたり
「―――ということで、もう一個質問なんですが。」
重くなる空気を気にした尚希が、即座に話を変えた。
「この子がこんな感じなんで、できるだけ急いで上に向かいたいんです。上手いことショートカットして上まで行ける方法ってありませんかね?」
「そうですね…。お堂に花を奉納するのは儀礼の真似事みたいなものですから、もちろん全てのお堂に立ち寄る必要はありません。ですが……」
そこで女性の表情が曇る。
「申し訳ないのですが、山頂へ至る道は本当にあの一本だけなんです。私たちみたいに普段から島に住んでいる人ですら、あの道を踏み外すことは禁じられています。」
「ふむ…。言いづらいものでなければ、どんな事情でそんなことに?」
尚希の声のトーンが一気に下がる。
それで尚希の方を見てみれば、彼は思案げに口元を片手で覆っていた。
落ち着き払った表情の中で、その瞳だけが興味津々という風に鋭く光っている。
どうやら、いつもの探求心が発動したようだ。
「いえ、ただの古いしきたりみたいなものだと思うんですけどね。」
女性はそんな前置きをして語り始めた。
「昔から伝わるお話があるんです。〈お山に入るなら、決して許された道から外れてはいけないよ。道を踏み外せば、お山はお怒りになってその者を隠してしまう。そうなれば、二度とこちら側には戻ってこられないからね。もし山のお怒りを買ってしまったら、山のお導きに従って道を進みなさい。そして山の主にお会いになって許しを乞いなさい。清き心の持ち主ならば、山の主様はきっとお許しくださるからね。〉……というものでして。」
「許された道……」
「見れば分かると思うんですけど、この山の道って、全部綺麗に囲まれているでしょう? あれは、許された道を踏み外す人が出ないようにって、祈祷師の方が定期的に結界を張り直しているらしいんです。」
「それは、ものすごく神経質ですね。」
尚希が相づちを打つと、女性は「そうですよね。」と頷いた。
「でも、ちょっとでも昔話だとか言うと、お年寄りの方とかがすぐにカンカンになって怒るんです。あんまりにも大人たちが深刻そうなんで、子供の頃は本当のことなんだと思って怖かったですね。悪い子はお山の主様に隠してもらうよって脅し文句まであったくらいですもの。」
「確かに、子供にはぴったりの怖いお
「いえ。少なくとも私は、聞いたことがないですね。広くない島ですし、誰かがそんなことになったなら、小耳にくらいは挟むとは思うんですけど。……そういえば、観光客の方にはこんな話をしないんですけど、不思議と皆さん、あの道から逸れようとはしないですね。」
「もしかして、祈祷師の人がやってることはただの慣習じゃないのかも?」
「あはは、まさか。」
尚希の言葉を冗談だと思ったのか、女性は明るくそれを笑い飛ばす。
だが、尚希の目にはそんな冗談じみた色はなく、女性の反応の一つ一つを観察する様子は真剣そのものだった。
「人の意識に、それとなく干渉する結界…。ありえるな。」
拓也がぼそりと呟く。
今まで行方不明になった人間がいないということは、確かにそういう魔法が作用していると見るのが妥当か。
特化型が生まれやすいこの地域だ。
アズバドルとは違う独自の技術が発達している可能性は、十分に考えられる。
「ちなみに、さっきの話にあった山のお導きっていうのは?」
尚希が次の質問を飛ばす。
「ああ。それも、昔から伝わる子守歌みたいなものでして。〈紫のルコラスで冠を編んで、青のミストットで耳飾り。緑のククルルで一休みしたら、黄色いシャージーの蜜を持って、赤いペリティールの花束と一緒にあの方の元へ届けましょう。さぁ、楽しい楽しいお茶会の始まりだ。今日は何を話そうか。明日は何を話そうか。〉っていう歌です。昔、事故で道を外れてしまった人が山の中でこの歌を聞いて、この歌のとおりに山を進んだらこちら側に戻ってこられたという
「ルコラス……もしかして、その歌に出てくるのはこの花ですか?」
「そうです。」
尚希が手に持っていた造花の束を持ち上げると、女性は何度も頷いた。
こうして見ると、山の入り口で渡された造花は、歌に出てくる色と合致している。
「どれも、この島によく咲く花です。この山のどこかには、それぞれの花で埋め尽くされた精霊たちの花畑があるなんてお話もあったりするんですよ。皆さんに山のお堂を巡って花を奉納していただくのも、この歌を題材に行っていた無病息災と五穀豊穣を願うお祭りがルーツになっているんです。これがいい島起こしになるんじゃないかって、観光客向けにアレンジしたのが始まりなんだとか。」
それを聞くと、尚希がぽんと手を打った。
「なるほど。実際にある儀式が元になっているとなれば、何かご利益があるんじゃないかとあやかりたくなるのが人の
「あはは、そこまでえげつなく言っちゃいますか? まあでも、確かにそうかもしれませんね。この山を巡った人たちから、体がよくなったとか、商売が上手くいくようになったとか、そんな話がまことしやかに囁かれるようになって、今ではここまでたくさんの人にお越しいただけるようになりましたもの。今では確実に、島一番の財源になってますね。」
「うん、この事業を考えついた人は相当優秀だ。それに、突然色々と訊いたのにここまで詳しく解説できるあなたも、かなり優秀なんですね。」
「いえいえ、そんなことは…。こんなお話でお客様を楽しませることができるなら、お安いご用です。」
「ええ、とても興味深かったです。ちゃんと土地の事情を聞いていれば、この子も危ない無茶はしないでしょうから。」
尚希は困ったような顔をし、拓也に腕を掴まれた状態でうつむく実の肩に手を置いた。
「あらやだ、私ったら……笑ってお話するような状況じゃありませんでしたね。」
己の態度を恥じるように目を伏せる女性。
それに尚希がフォローを入れようと口を開きかけたが、彼女はそれよりも先に顔を上げて、実の元へと駆け寄った。
「大丈夫ですよ。きっと、お兄さんには会えますから。もし私が先にお兄さんに会ったら、意地でもここに
実の両手を握り、彼女はまるで自分の心を痛めたような顔をする。
それに対して、実はたまらず奥歯を噛み締めた。
違う。
本当は違うんだ。
同情される理由なんてない。
そう思ったが、こちらを心配してくれている彼女の表情を見ると、そんなことも言えなくて。
そして何より、自分の心が大きく揺れた本当の理由などすぐには口にできなくて。
「…………すみません。ありがとうございます。」
この時は、その場しのぎの言葉しか返すことができなかった。
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