衝動に駆られた理由

 結局、この日はお堂の向かいにある宿で一泊することになった。



 拓也がここに泊まると頑として譲らなかったこともあるが、お堂で聞いたこの土地の話を聞くに、無理に進もうとするのは得策ではないと判断したからだった。



 おそらく、この島の聖域は山の頂上にあるわけではなく、山全体が一つの聖域なのだ。

 そして結界で守られた範囲内でのみ、人間が自由に動き回ることができるのだろう。



 疑問があるとすれば、どうしてそれほどの労力を払ってまで、島の人間がこの山に入ろうとするのか。



 どんな逸話いつわがあれど、聖域は聖域。

 人間に害を及ぼす領域であることには変わらない。



「実。」



 ふと声をかけられ、考え事をしていた実は、ぼんやりと見つめていた空から視線を落とす。



「こんな所にいたのか。風呂にも部屋にもいないから、捜したじゃねぇか。」



 湯上がりのまま捜し回ったのだろう。



 こちらに歩いてくる拓也の髪の先には水滴が光っていて、彼が歩を進める度に月明かりを反射した雫が地面へと落ちていった。



「ごめん。もう少ししたら、戻るつもりだったんだけど。よくここだって分かったね。」



 ここは、宿の中庭のすみにひっそりとあった東屋あずまやだ。



 植木が上手い具合に東屋を隠しているので、この宵闇の中ではここの存在に気付く人も少ないだろうに。



「お前のことだからな。人が近寄らなさそうな所を探せば、楽なもんだよ。においもあるし。」



 こちらの行動の癖は、ばっちりと見抜かれてしまっているらしい。

 なんでもないことのように告げる拓也に、実は苦笑を呈した。



「なるほどね。尚希さんは?」



「今頃、カルノさんと電話中。ニューヴェルで観光業に強い人にコンタクトを取ってもらうんだと。隙あらば仕事のことなんだから、ありゃ病気だよ。」



「拓也の俺に対する世話焼きも、似たようなもんだと思うけど。」



「何か?」



「いーえ、なんも。俺が危なっかしいのが原因なんで。」



「分かってるならよし。」



 拓也は満足そうに頷き、実の隣に腰を下ろした。



 軽いじゃれ合いのようなやり取りが過ぎ去れば、途端に重苦しい沈黙が場を支配する。



 目的は違うとはいえ、せっかくこんな所に来たのだ。

 話題には事欠かないはず。



 今日見た景色のことや、口にした食べ物のことや、島の人から聞いた話のことや。

 少しくらい気を抜いて、そんなありきたりな話をしてもいいはずなのに。



 それなのに口は全然動いてくれなくて、澄んだ空気と綺麗な月明かりを感じるほどに、それに感動できない自分の心がいかに沈んでいるかを痛感する。



「少しは落ち着いたのか?」



「うん……まあ……。なんか、ごめんね。拓也の言うとおり、急いだところでそんな簡単に父さんが捕まるわけがないのにさ。焦ってばっかで馬鹿みたい―――」



 無理に笑おうとして、言葉が続かなかった。



 こちらをじっと見つめる拓也の眼差しと、そこに込められた心底こちらを案じる光。

 それが、あまりにも胸に痛かった。



 全然隠せてないな、と。



 無駄に抱え込むことはしないと意識するようにはしていても、そう思ってやりきれない気持ちになる心は、まだ上手くやり過ごせない。



「―――ほんと、思うようにいかないもんだね。自分の心ってさ。一生懸命隠して忘れようとしてた時の方が、よっぽど楽だったかも。」



 思い知る。



 自分の中だけで秘めている気持ちは、他人に伝わらないが故に何度でも書き換えることができて、つらいことにも簡単にふたをすることができる。



 そうして自分の都合のいいように記憶をすり替えて、心をごまかすことができてしまうのだ。



 一言でも心の叫びを声に出してしまえば、それは自分が抱いている感情を認めてしまうことに等しい。



 そうすればもう、自分の心をごまかせない。



 声に出して誰かに共有してしまえば、もうそれをなかったことにできないのだから。



 隠さないことは、少しばかりつらいこと。

 だけど―――



「こんな気持ち、知りたくなかったなぁ……」



 ぽつり、と。

 とっさに隠そうとした心が、外に零れていく。



「一人じゃきつくて、誰かに全部吐き出したい、なんて……そうしないとつらい、なんて…………こんな気持ち……」



 無意識に握り締めた拳。

 それが瞬く間に震え始める。



 隠していた時の方が楽だったと思う。

 でも、あの時にはもう戻れない。



 自分の負担を吐き出すことを覚えてしまった心が、昔のように何もかも忘れることを許してくれない。



 言ってしまいたい。

 聞いてほしい。



 そんな風に、暴れ回ってしまうのだ。



「実…」



 拓也の口調に、険しさが混じる。



「お前、何か隠してることがあるんだな。」

「………」



 断定的に問われ、黙り込む実。

 拓也はそんな実をじっと見つめ、その後―――



「はぁ…」



 深く息を吐き出した。



「いいよ。別に、今さら怒らないって。」

「……へ?」



 一瞬何を言われたのか理解できなくて、実はきょとんと目をしばたたかせた。



「あのな…。今までが今までだったかもしれないけど、おれはそんなに馬鹿じゃないっての。この間の一件だけで、お前が隠してることを全部聞けたなんて思ってないから。あの時には言う必要がなかったことも、言いたくても言うタイミングがなかったことも、腐るほどあるだろう。そんなことは分かってるよ。」



 拓也はふと、頭上の月を見上げる。



「―――それで、今まで隠してたことを言いたくなったタイミングが今なんだろ?」



 そっと、静かにこちらに向けられる拓也の瞳。



「言えよ。嫌なら、尚希には言わないでおくから。」



 まっすぐに見つめられ、お堂で拓也に腕を掴まれた時のことを思い出す。



「………っ」



 あの時に感じた動揺が、また鎌首をもたげる。



「さっき……」



 心臓が大きく鳴り響く。



「お堂から慌てて出ようとしたの……本当は、急ごうとしたからじゃないんだ。」



 声が震えそうになる。



 このことを認めるのは嫌だ。



 でもこのままじゃ、あの時に気付いてしまった衝動の正体に、身も心もすくみ上がってしまいそうで……





「本当は……―――父さんに会うのが怖くて、とっさに逃げそうになったんだ。」





 動きたがらない喉を必死に動かし、やっとの思いでその一言を絞り出した。


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