あの事件を超えたが故の懊悩

「…………いや。」



 ひと呼吸の間を置いて、ゆっくりと首を左右に振る。



「それだけじゃない。尚希さんと拓也には、できるだけ今までみたいな態度にならないように意識してる。だから、ちょっとぎこちなくなる時があるかも。……ごめん。」



 喉に絡む違和感を押し殺し、とっさに隠そうとした本心をあえて音に乗せる。



「実…」



 思わず表情を曇らせてしまった自分の心境を察したのだろう。

 拓也と尚希が、それぞれの顔に複雑そうな色を浮かべる。



「本当は、まだちょっと怖いよ。でも、これが今の俺に一番必要なことだと思うんだ。それに、怖いだけじゃないから大丈夫。」



 変に誤解はされたくない。

 実は拓也と尚希を交互に見つめた。



「大丈夫。拓也たちに正直になってる時は、なんだかんだで一番心が落ち着いてるんだ。封印の揺れも、前より少なくなった。だから、これでいいんだと思う。色々と……受け入れないと進めないから。」



 最後の一言は、自分に向けて放った言葉だった。



 そう。

 受け入れないといけないのだ。



 過去の自分を受け入れずに立ち向かうと決めて走ってきたけど、それではこの先にはきっと進めない。



 向き合って、受け入れることでしか見られない未来もあるはずだ。



 今は、そう信じて歩むことしかできない。



(向き合う、か……)



 本当に、そんなことができるだろうか。



 ふと思い浮かんだ、ささやかな疑念。

 それは瞬く間に質量を増して、思考を埋め尽くしていく。



 否定せずに、ありのままの自分を認めてもいいのだと。



 拓也たちにも―――そして、今はもういない彼にもそう言われた。



 でも、幼い自分の姿をした彼は、自分を認めてもいいといった同じ口で、〝鍵〟としての心を理解するなとも言った。



 なんて難しい要求だろうと思う。



 だって、自分はもうたった一人なのだ。



 自分のことを認めて受け入れるということは、いずれ否応なしにそれらの問題を直視することになるんじゃないか、と。



 そう考えられずにはいられない。



 自分としての心と、〝鍵〟としての心。

 そこに、何の差があろうというのか。



『この魂はね、〝鍵〟としてあの魔力を内側に封じてきた時間が長くなりすぎて……徐々に、内側に封じた魔力が持つ、強すぎる想いに侵食されてしまっているんだ。そして、輪廻転生を繰り返す中で数えきれないほど殺されてきて、この魂自身も、内側に封じた想いに自ら共鳴してしまっている。』



 彼のあの言葉が真実だとして、自分がその影響を受けていない保証がどこにある?



 魂が侵食されて共鳴しているというなら、その地層の上に立つ自分の心もいずれ―――



「実。」



 突然真っ暗になる視界。

 目を塞がれたのだと気付くまでに、少し時間がかかってしまった。



「考えなくていいことを考えてる顔をしてる。それ以上考えるな。」



 穏やかな口調で諭すように指摘され、自分の思考がよくない方向に傾いていたことを知る。



「あ……ごめん……」



 ぽつりと零した実に、実の目元から手を離した拓也は首を振った。



「気にするな。おれらが見てる前であれこれ考えるなら、やばそうな時にこうやって止めることができる。それでいいんだ。」



「そうそう。オレたちは自分で望んで実と一緒にいるんだから、安心していいんだぞ。少しずつでいいから、肩から力を抜くことを覚えような。一人で抱え込むのはおしまい、だろ?」



 拓也の言葉を後押しした尚希は、ゆっくりと手を伸ばして実の頭をぽんぽんと叩く。



 優しく笑う尚希の手が頭に触れる感触を感じながら、実は複雑な気持ちにならざるを得なかった。



 自分で望んで一緒にいてくれる。

 そう言ってくれるのはとても嬉しい。



 でもそのために、拓也も尚希も重たい対価を支払うことになってしまった。



 拓也は、自分を殺すという約束を。

 尚希は、次代の〝フィルドーネ〟としての責務を。



 レイレンと話している尚希の手元を見ると、それを思い知らされてしまう。



 彼の手は、アイレン家の正装で使うという黒い手袋ですっぽりと覆われていた。



 自分を助けるために大地の呪いを引き入れて以来、日常的に見られるようになった光景だ。



 大地の呪いが他人に悪影響を与えないよう、当然の配慮だと尚希は語った。



 だが彼の立場上、どうしても四六時中手袋をはめっぱなしというわけにもいかないので、現在代替案を模索中らしい。



 手袋のように直接皮膚を覆う手段を取れないとなると、自分が普段つけている魔封じの腕輪のように特殊な魔法を施したものに頼るしかないそうで、それについては拓也がどうにかしてみるとのことだ。



 魔法の最先端を独占している城や〝知恵の園〟に頼めばなんの苦労もしないのだが、今の状況ではそれも難しい。



 ここ最近の拓也は自分の身辺警護のかたわらで、分厚い魔導書や様々な道具と睨み合っていることが多い。



 それに拓也だけではなく、尚希の忙しさもさらにひどいものになったように思う。



 ニューヴェルでの仕事に加え、〝フィルドーネ〟の力の使い方を覚えるついでに、レイレンの手助けをして各地を回っているらしいのだ。



 巡るポイントはレイレンが網羅しているので移動に苦労はしないらしいが、移動魔法を使ったとしても、相当な激務であることには変わりない。



 この船旅が、少しでも尚希の休養期間になればいいのだが……



(俺にできることはなんだろう……)



 自分のためにここまでのものを背負ってくれた彼らに、自分は何をどれだけ返せるだろうか。



 どうしたら、胸を張って彼らと向き合えるだろうか。



「………」



 この時はまだ、自分の中に答えを見出だすことはできなかった。


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