人間の何かが変わる瞬間
「ほら……ちゃんと、五分以内だぞ……」
華麗に着地を決めた実は次の瞬間、膝に手を置いてうなだれた。
「し、しんど……」
肩で大きく呼吸を繰り返す実。
その肩の動きに合わせて、垂れた前髪の向こうでいくつもの汗が光って落ちていくのが見えた。
きっと、相当無茶な体力の使い方をしたのだろう。
ジャージーの花畑からここまでがどのくらい離れているのかは分からないが、今までの移動距離と周囲の環境を思い返すだけで、実がこの五分にかけた労力の大きさが痛いほど分かる。
分かるのだが……
「なんで……」
にわかには現実が信じられず、ユーリは茫然と実を見るしかなかった。
「えー、うそ!? 本当に着いちゃったの!?」
自分で振った無理難題のくせに、ペリティールが心底驚いた顔をして実へと駆け寄る。
「おお~、めっちゃ疲れてるね~。」
ペリティールの後ろからついていったミストットは、実の前にしゃがんでその顔を覗き込み、面白半分といった風に口の端を吊り上げた。
「そりゃ、疲れるに決まってんじゃん。こいつの力を探しながら、どんだけ木の上を跳びまくったと思ってんのさ。」
「にゃはは、さすがは実。賢く上から来たのね。」
「誰がちんたらと下から行くか。それより―――」
実はキッと目元を険しくし、ペリティールの頭を両手で掴んだ。
「このじゃじゃ馬が! なんで関係ない奴を巻き込むかな!? さすがに怒るよ!?」
「いや~ん、だってぇ……」
「だって、じゃない! 怒られる準備はできてるんだろうな!?」
「ユーリを連れていけって言ったのは、ククルルだもーん!!」
実の怒気に焦ったペリティールが、意地汚くククルルを巻き添えにする。
巻き込まれたククルルは嫌な顔をすると思いきや、彼女は実の視線を受けるとくすりと含み笑いをたたえた。
それはまるで、この展開を待っていましたとでもいうよう。
「ぼくはペリティールからの相談に、的確なアドバイスをあげただけだよ。」
「そんなアドバイス、あげなくていいから! マジで心臓が止まるかと思ったわ!!」
実は至って真面目な表情で、そんな大袈裟なことを言う。
ククルルはそれを聞いて、浮かべた笑みに苦い色を混ぜる。
「心臓が止まるって……たかだか人間一人に。」
「俺にとっては、たかだかじゃない。」
「お優しいことだね。この子は、君を殺そうとしてたんだよ?」
「そんな客観的な事実はどうでもいい! 俺にとっては、たかだかじゃないって言ってんだろ!!」
あくまでも穏やかに事実を突きつけるククルルを全否定するように、実は一際大声で叫んで首を振った。
しかし、今の実にはそんな大声を張ることも厳しいのか、叫んだ実は呼吸を整えるためにまた肩を上下させてしまう。
「確かに俺は……この世界では、望まれない存在だよ。」
実本人の口から、悲しい現実が告げられる。
「さっさと死んだ方がいいって……俺自身も、何度もそう思ったさ。でも、仕方ないじゃん。死ねない理由が、できちゃったんだからさ……」
時おり咳き込みながら、それでも実は必死に言葉を
「仕方ないんだ。俺が生きてる限り、この世界の人は俺を殺そうとする。それは……どうしたって、変えられないんだよ。」
「………っ」
胸の奥から熱いものが込み上げてきて、ユーリは思わず服の裾を強く握った。
なんだか、どうしようもなく切なくなる。
―――仕方ない、と。
それは〝鍵〟という存在に対して、自分たちが簡単に口にする言葉。
それを実の口から聞かされると、こんなにも心が苦しくなるなんて。
言葉の響きも、その重みも、何もかもが全然違うものに聞こえるのだ。
「だから俺は、俺を殺そうとしたなんて理由で、人を恨まない。憎みもしない。ただ、そんなもんなんだって、受け入れるだけだ。」
そこでふと苦笑する実。
「まったく……レイレンの奴に言われたことだと思うと、色々ムカつくんだけどさ…。でも、別にこの世界を好きにならなくていいって……そう言ってもらえたことには、正直すごく救われてるよ。」
「好きにならずに受け入れるだけ、か。それで封印を守れるの?」
ククルルは容赦なく、実を追い詰めるようなことを言う。
その物言いに不快感を覚えて口を挟もうとしたユーリだったが、そう言われた本人である実は、肩をすくめて眉を下げるだけだった。
「そうだよね。俺だって結局人間なんだし、受け入れるだけじゃ、この封印を守るには気持ちが弱いかもしれない。」
素直にククルルの指摘を認める実だが、その表情はどこまでも穏やかなままだ。
実はゆっくりと胸に手を当てる。
「俺は強くはないよ。今まで頑張ってみたけど、この世界全部を好きになるなんてできなかった。きっとこれからも、出会った人たちを無条件には好きになれないと思う。俺の気持ち一つで、世界は壊れるかもしれないのにね。……でも、だからこそ、俺の気持ちが大事なんだってことも分かる。―――だから。」
ぐっと拳を握り締め、実は顔を上げて、まっすぐにククルルを
「俺はもう、人間から逃げない。俺の存在意義がなんだとか、相手の使命がなんだとか、そんなことは関係ないんだ。俺は今この時を生きているただの人間として、今目の前にいる人と向き合っていきたい。それで、俺と向き合おうとしてくれる人たちを、大事に想えるようになりたいんだ! 世界を守るために封印を守るんじゃない。大事な人たちと一緒に笑っていたいから封印を守るんだって、そう思えば……こんな俺でも、きっと前を向いて生きられる。俺には、そう思わせてくれる人たちがついてる。だから、きっと大丈夫だよ。俺は、そう信じてる。」
実は顔をほころばせる。
幸せそうなその微笑みは、直視するにはまぶしすぎるほどに綺麗で。
まばたきも呼吸も奪われるほどに、本当に綺麗で。
(ああ……僕は馬鹿だ……)
自分の根幹から、全てが崩れ去っていく感覚。
そんな感覚に、ユーリは抗う間もなく飲み込まれていた。
なんだろう。
不思議な気分だ。
今までの自分を作っていた信念がなくなっていくのに、不思議と喪失感はなかった。
優しくて穏やかに微笑む実の姿を見ていると、失うと同時に、別の何かで心が満たされていく気がする。
(違うよ、実。)
胸が震える。
(君は弱くなんてない。すごく強いよ。)
自分でも驚くくらいに
実が自分の前で腕輪を外した時のことを思い出す。
あの時目にしたものがきっかけで、自分は初めて〝鍵〟という存在への認識に疑問を持った。
なかなか自分の中で納得ができなくて気持ち悪かったが、今なら断言できる。
やはり、あの時自分が感じたことは間違いじゃなかったのだと。
あの時に見た実も、そして今目の前で笑っている実も―――
(綺麗だな……)
心の底から、そう思うのだ。
「どう? 生きながら生まれ変わる感覚って。そんなに悪いものじゃないだろう?」
こっそりと問いかけられる。
それで実から視線を移すと、ククルルがこちらを見下ろして
なるほど。
人間の何かが変わる瞬間、か。
これは確かに―――
「悪くないかも。」
認めざるを得なかった。
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