支えを失っていく信念

 ククルルの花畑を出発してしばらく。

 たまたま湖の側を通りがかったので、十分ほど休憩することにした。



「おお…。さすがは聖域の中だけあって、綺麗だなぁ。」



 実は湖の淵に膝をつき、かばんから取り出した水筒を軽くすすいで、その中に水を汲んだ。

 そのまま一切躊躇ちゅうちょすることなく水を飲んだ実に、ユーリは複雑な視線を向ける。



「……ん? る?」



 ユーリの視線に気付いた実は、水筒のふたに水を入れて、それを彼に差し出す。

 しかし、ユーリはそれに否と首を振った。



「いや、いい。というか、君もよく飲めるな。」

「え?」



「聖域が人間に害を及ぼすことくらい、僕だって知ってる。なんで、そんな場所のものを口にできるんだ?」

「ああ……そっか。普通はそうだよね。抜けてた……」



 独り言のようにそう零した実は、ユーリに差し出した水を引っ込めると、その上に自分の手をかざした。

 すると水が淡く光り出し、実が手を離すと同時にその光も消える。



「はい。」



 改めて水を差し出してきた実に、ユーリは眉をひそめて首を傾げる。



「多分大丈夫だとは思うんだけど、一応浄化しといた。もう大丈夫だから飲んで。喉渇いてるでしょ?」



 そうは言われても複雑な気持ちは変わらないのだが、実はいつまで経っても、差し出した水を引っ込める様子はない。

 仕方なく、ユーリは渋々と実から水を受け取った。



 小さな器の中で揺蕩たゆたう水を見ていると、喉が勝手に少ない唾を嚥下えんげした。

 実が指摘するように、朝から歩き通しだったせいか、体が水分を求めているようだ。



 まあこの性格の実が、今さら自分に牙を向くとも思えない。

 逡巡しゅんじゅんした結果、ユーリはそっと水に口をつけた。



 ゆっくりと口に含んで飲み込んだ水は、さらさらと喉を通り抜けていく。

 全身に水の冷たさが心地よく広がっていき、その冷たさが消えると、体の中に溜まっていた疲労も一緒に消えていくようだった。



 ちらりと実を見れば、実は満足そうな顔でこちらが水を飲む姿を見守っていた。

 きっと昨夜と同じように、こちらの体が楽になるように魔法でも仕込んだのだろう。



「なんだかな……」



 水を飲み干して実に器を返したユーリは、無意識のうちにそう呟いていた。



「どうかした?」

「いや……」



 ユーリはうつむいて、自分の両手を見つめる。



「なんか……僕が今まで信じてきたものは、何なんだろうって思ってさ……」



 島を守るべき力を持った人間として叩き込まれてきた、様々な教え。

 それを一切疑わずに生きてきた、今までの自分。



 自分の在り方が間違っていたとは思わない。

 でも実と行動を共にしてから、自分の中で明らかに何かが変わりつつある。



 具体的に何が、とは表現できない。

 でもこの変化はきっと、今までの自分の価値観を塗り替えるようなものであるような気がするのだ。



「えっ…と、俺が突っ込んじゃいけなさそう…?」



 ユーリがあまりにも深刻そうな顔をしているので、実は返答に困って視線を泳がせる。



「よく分かんないけど、そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな!」



 無言の空気に耐えかねた実が、苦しまぎれにそんなことを言う。

 それは細かく事情を聞けない実なりに、精一杯こちらを元気付けようとしてくれた言葉なのだろうが……



(気にさせてる本人が何を……)



 そんな本音は口が裂けても言えず、ユーリはひっそりと息をつくことしかできなかった。


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