小さな変化を積み重ねて……

「わっ!?」



 部屋の外に出た瞬間、ドアのすぐ近くにいた誰かとぶつかりそうになってしまった。



「た、拓也……」



 驚いて胸を押さえる実に、拓也は特に何も言わずに静かな視線を向ける。



「おはよう。」

「え? あ、おはよ…。じゃなくて、ここで待ってるくらいなら、ノックしてくれてよかったのに。」

「別に、待ってたわけじゃない。たまたまタイミングが合っただけだ。」



 淡泊な口調で告げた拓也は、寄りかかっていた壁から身を離して廊下を進んでいく。



(絶対に嘘だぁ……)



 口に出しては言いにくかったので、心の中だけでぼやいておくことにする。



 あの一件以降、拓也はこちらの身を案じるような発言を必要以上にしなくなった。

 だからといって、こちらへの関心が薄くなったわけではなくて。



 ただ、じっと。

 まるでこちらの影に寄り添うように、物静かに隣に控えていることが増えた。



 そして自分並みに、時には自分以上に、他人への警戒心が強くなったように思える。



 この船旅に出てからというもの、自分と他人の間にごく自然に入ってきたり、こうして部屋の前で待っていたりと、自分のことを守るような行動がすっかり板についてしまっているのだ。



 そのうち毒味をするとか、地球でも学校についてくるとか言い出しそうで怖い。



(俺は別に、拓也にボディーガードをしてもらうつもりはないんだけど……)



 そんなことを思う反面、拓也がただ純粋に自分を大事に思ってくれているのだと思うと、戸惑う気持ちの中に嬉しい気持ちもあって、どうにもこうにも文句を言えなくなる。



『分かった。約束する。』



 拓也のあの言葉が、まだ数秒前の出来事だったかのように鮮明に思い出される。



 自分で自分を制御できなくなるのが、とても怖くて。

 だから心のどこかでずっと、自分の代わりに終止符を打ってくれる誰かを求めていた。



 それは、とても桜理には求められないほど重たい願いで。

 それでも、これ以上の望みなんてないと言い切れるくらいに強い願いで。



 こんな願いを誰かに押しつけることはできないと、怒濤どとうの毎日を乗り越える時間の中に埋もれさせて、その願いを意地で直視しないようにしてきた。



 その望みを我慢できなくなるほどに大きくしたのも、その望みを受け入れてくれたのも拓也だ。

 あの言葉にどれだけ救われたかなんて、きっとどんなに言葉を重ねても表現しきれない。



 実はそっと、自分の左肩に手を添える。



 傷は残っていなくとも、あの時に感じた痛みはしっかりと覚えている。



 後ろに下がることを許さないと言われたことも。

 弱い自分を全否定してやると言われたことも。



 そして、どこまでも一緒に進んでやると言われたことも。



 全部、全部覚えている。

 それらを思い返すだけで、今までとは違った意味で前を向けると思えるのだ。



 なるほど。

 そう考えると、確かに自分にはマゾの気があるのかもしれない。



 ふとそんなことに思い至り、少しばかり複雑な心境に陥る実だった。



「ねぇ、拓也。」

「なんだ?」



 呼びかけると、拓也は丁寧に立ち止まってからこちらを振り向いて、首をひねった。



 不思議そうにこちらを見つめる友人の姿がどうしようもなく眩しく見えて、実は目をすがめて微笑む。



 がむしゃらに否定ばかりしていた頃は、そうすることが皆を守ることに繋がるんだと思っていた。



 周りの優しさを受け入れることが、皆に重いものを背負わせることになりそうで、それなら自分はひとりでいた方がいいと、疑いようもなくそう思っていたのだ。



 でもそれで得られたのは、その場しのぎで独りよがりな満足感だけ。

 その満足感の裏で、自分は何度も大切な人たちを傷つけたことだろう。



 それでも拓也たちはこんな自分に食らいついてきて、隠し事も意地もなくしてしまった小さな自分を受け入れてくれた。



 それだけの想いを注がれることの意味を知った今なら、ちょっとずつでも変わっていけると思うのだ。



 自分自身を受け入れることはまだ難しいけど、せめてここまで一緒にいてくれた拓也たちを受け入れることくらいなら、きっと。



 たとえば、こんな時に〝ごめん〟じゃなくて―――





「……ありがとう。」





 と。

 こうやって、口にする言葉を変えることから。



 少しずつ、できることから始めていこう。

 そしていつか、拓也たちのことも自分のことも受け入れられればいいなんて。



 そう思うのは、変わり身が早すぎるだろうか――?



「………」



 拓也はしばらくの間、虚を突かれたように固まっていた。

 でも。



「――― おう。」



 そう言って笑ってくれた拓也は、本当に嬉しそうな顔をしているように見えて。

 きっとこれでよかったんだと、そう思わせてくれた。



「ほら、早く行くぞ。尚希たちが待ってる。」

「はいはい、分かってるよ。」



 互いに笑い合い、実と拓也は廊下をまた進み始めるのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る