第2話

 太陽と月がその役目を交代でつとめるように、昼となく夜となくドイツの上空にやってくる爆撃機隊も、夜はイギリスの独壇場だった。

 まるで舞台の上から落とされた紙吹雪のようにひらひらと舞い落ちてくる爆弾が命中して、建物それ自体が爆発したように炎上するのを、アルフレートはぼんやりと眺めていた。路上には彼の他に人影はなく、家という家、商店という商店が、すべての明かりを落として、死神から逃れようと息をひそめていた。

 青黒い空の、細長い、黒いシルエット。イギリス軍の、アヴロ・ランカスター爆撃機。

 あれは私たちの救世主だよ、とだれかが言っていたのを思い出す。

 一九三三年から吹き荒れた迫害と殺戮の嵐は、まもなくドイツと、それにしいたげられた国々の上を過ぎ去ろうとしていた。そこに住むだれひとりとして、しかとは気づいていなかったけれども。

 それにくらべれば、今夜彼らの頭上にやってきた、大きな腹に爆弾を抱えた天使など、ものの数ではなかった。神は彼に、この災厄をのりきるだけの恩寵――その容貌と金色の髪――を与えていた。

「――おい、そこの!」

 突然の荒々しい声に、アルフレートはふりむいて、素早くあたりに視線を走らせた。

「そこの、金髪の男! そうだ、おまえだ!」

 探照灯サーチライトの白い光と燃えさかる炎を背に駆けてくる人影が黒服の親衛隊員だとわかって、アルフレートはぎょっとした。

 なんと言い訳するんだ? 今から避難しようとしていたんです、か? 空襲の最中に防空壕にも入らずこんなところをうろうろしていたら、火事場泥棒と決めつけられても弁明することはできない。重罪に値する。

 できることなら、くるりと背をむけて逃げ出したかった。しかし、足は地に貼りついたように動かない。長靴が石畳を蹴る音が、爆音のなかでもいやにはっきりと聞こえる。死刑の執行を知らせる刑吏のように――。

 身を固くする彼のすぐ横で、足音が止まった。

 男は彼の前にくると、とたんに笑顔になった。

「やっぱり! アルフレートじゃないか、そうだろう?」

「きみは……、テオドールか?」

 それだけ言うのがやっとだった。口のなかがからからになっている。

「こんなところで逢えるなんて、思ってもみなかった」

 アルフレートとは反対に、テオドールの声ははずんでいる。

「ああ……」

「一ヵ月ぶりかな?」

「……そう、かな」

 それだけ言うのがやっとだった。

「びっくりしたか?」

「そりゃあね……。親衛隊員エス・エスに追いかけられて、驚かないやつなんているもんか」

「こんなところで、なにを?」

「別に、なにも。このあたりはくわしくないんだ」

「とにかく、こんな道の真ん中にいちゃ危ないぞ」

 テオドールはアルフレートをひっぱって、アパートの外階段のかげにひきずりこんだ。そこはちょうど暗がりになっていて、ふたりの姿は通りからは見えなくなった。

 そのあいだにも、爆音は響いてくる。

「防空壕へ行かないのか?」アルフレートはたずねた。

 テオドールはにやりと笑った。

「そんなこと、どうでもいいさ」

「だけどきみは、避難している最中じゃなかっ……」

「まさかまたきみに逢えるとは考えてなかった。だって、住所もなにも聞いておかなかったからね。あのあと後悔したよ。ずっと、もう一度逢いたいと思ってた」

「一度逢っただけなのに?」

「それでもだよ。信じられない?」

 テオドールの肩ごしに、遠くで爆発が起こるのが見えた。

「……いいや」

「ぼくはきみに逢いたいと思ってた。でもきみは? きみは、ぼくに、少しでも……」一瞬、サーチライトの光を受けて、濃い青い瞳がきらりと光った。

「逢いたかった?」

「逢いたかったよ」アルフレートは答えた。

 そのとたん、

「きみがぼくに逢いたいと思っていてくれて、うれしいよ」

 有無をいわせぬ素早さで、それでもやさしく、テオドールはアルフレートを抱きしめた。「この前は、突然だったから、きみが気にしているんじゃないかと思って――」

 アルフレートは抗議しかけたが、

「だれも気にしやしないさ」

 なかば押さえつけられるような格好で、くちびるをふさがれた。

「アルフレート……」

 テオドールの息は荒い。興奮してるのか、とアルフレートは思った。

 こんなときなのに?

 こんなときだから……

 どうするか決めあぐねているうちに、スーツのボタンがはずされ、手がベストとタイにかかっていた。

「おい――」

 襟首をひっつかむが、やめない。

「アルフレート、ね、いいだろ?」

「本気か?」

 シャツの第一ボタンがはずされる。

 タイは首にひっかかっているだけになり、ジャケットは片方のひじのあたりまでひきはがされた。

 ボタンを腹のあたりまであけてしまうと、テオドールはアルフレートの首筋と胸を、舌で愛撫した。片手で相手の利き腕を押さえこみ、抵抗できないようにしてから。アルフレートが自由に使えるのは、左手だけだった。

「テオドール、やめてくれ――」

 テオドールの手が敏感な太腿を撫でまわし、快楽に喘ぐ声でアルフレートは哀願した。言葉とはうらはらに、彼のものも、相手にはっきりそれとわかるくらいちあがっていた。彼の、男にしては細い手首はがっちりと掴まれ――コンクリートに擦りつけられる痛みを、テオドールはわかっていない。

 ズボンはすでにひざまでずり落ちている。コンクリートのひやりとした感触が尻に伝わってくる。

 テオドールは愛撫の手をとめて、ちょっとのあいだごそごそやっていたが、次にアルフレートが我にかえったときには、彼の片脚は抱えあげられていた。

 熱く猛ったものを性急に押しこまれて、アルフレートはうめいた。テオドールの肩ごしに薄目を開けて見やると、東の空一面に、爆撃を受けて炎上する家々のシルエットが浮かびあがっていた。

 蝿のように小さな爆撃機の編隊から次々と落とされる、やはりまるでごみみたいな焼夷弾がぱらぱらと落ちていくのが見える。ふしぎと恐怖は感じなかった。

 焼夷弾が、すでに落とされた爆弾の爆風にあおられて、おそらく投下時の目標とは別のところに飛んでいく。いや、目標などほんとうはないのかもしれない。目標がどこだろうと、落とされる側にとっては、生と死のせとぎわであることに変わりはないのだ。

 腹に響く爆音と、焦げ臭い煙。首筋にかかるテオドールの熱い息。耳をつんざくサイレン、風にのって聞こえてくる悲鳴。背中にあたる硬いコンクリートの感触、怒号、白っぽいサーチライトの光、さかんに撃ちかえす高射砲の音、互いの下半身の熱さ……。

 アルフレートは目を閉じた。


 ふたりは立ったままあわただしく遂情し、からだを離すと、乱れた服をととのえた。イギリス軍はすでにひきあげていた。

 アルフレートが髪を撫でつけているだけでひとことも発しないので、テオドールはたずねた。

「こんなことになって、後悔している?」

「……いいや」

「そう……か、それなら、よかったよ」

 きみが、あんまり、しゃべらないものだからさ、と彼は言った。

「きみの、仕事は?」アルフレートが言った。

「もう帰るところだったから。きみは?」

「ぼくもだ」

「送ろうか?」

 気をつかって言ったのだろうに、アルフレートは首をふった。

「ひとりで帰れる」

「そう、か……」

「……でも」年下の青年が、あまりにも気落ちしたような顔をしているので、アルフレートは急いで言った。「途中までなら。いっしょにいける」

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