1944年の過越
吉村杏
第1話
AMOR TI VIETA
LORIS:
Amor ti vieta di non amar.
La man tua lieve,
che mi respinge,
cerca la stetta della mia man;
la tua pupilla esprime: “T'amo”
se il labbro dice:
“Non t'amerò”
爆撃のないその夜は、かわりに雨だった。それもどしゃ降り。
アルフレート・ヨハネス・ヴィーゼンタールは、だれのとも知らない家の軒下で、雨のやむのを待っていた。
もうかれこれ三十分ほどもたたずんでいるのだが、いっこうにやむ気配はない。まだ肌寒い三月の雨に、コートの肩は濡れそぼっていた。
胸の前の紙袋を抱えなおす。寒気が、襟といわず袖口といわず染みこんできていた。
遠くの空で雷鳴がとどろいている。灰色の空にインクをぶちまけたような黒雲は稲妻に照らされて、ときおり青白く輝いた。槍のようにするどく、ナイフのように冷たく、刑吏のように容赦のない雨がコンクリートを叩いた。それほど上等とはいえないアルフレートの革靴は、すりきれたつまさきから雨が染みこんで、靴下と冷えた指先を気持ち悪く濡らした。
このままここにいるのと、家まで走って帰るのとどちらがいいだろう? アルフレートは考えた。どちらにしても、肺炎にかかるのはまちがいない。それは避けたかった。だいいち、全行程を走りとおせるほど、近くない。
かじかんだ足で足踏みをすると、靴から水がにじみ出した。
そのとき、ドアが開いて、若い男が顔を出した。
「だれ?」
と男。
「すみません、少しだけ雨宿りを――」アルフレートは驚いてふり返った。
「いいよ。ちょっと前から下を見てたんだけど、あんた、ずっといるだろ? 気になってさ」
「すみません」
男は
「入りなよ。軒下よりはましだろ?」
家のなかに足を踏み入れると、あたたかい空気が彼を包みこんだ。
「その包みは?」
「届けものだよ」
アルフレートは袋の口を少し開けて中をのぞきこんだ。よかった、濡れていない。
「大事なもの?」
「ああ、書類だよ」
「乾かしたほうがいいかな」
「いや、いい。濡れてないから」
男はコートを着たままのアルフレートを、水滴のしたたる頭のてっぺんから靴のつま先まで眺め、
「そのままじゃ風邪をひくな。ちょうど風呂をいれようと思っていたところだったから、よかったら入れよ」
「そんな、いいよ、そこまで……」
「どっちにしろ、そのびしょ濡れの服は脱がなきゃいけないだろう? タオルを貸さないほど薄情じゃないし、そんなかっこうでうちのなかを歩きまわられたんじゃ、こっちだって迷惑だからさ」
「すまない」
「そんなにかしこまることないだろ。困ったときはおたがいさまさ」
アルフレートが手早く濡れた服を脱ぎ、空襲つづきで断水もまれではなくなった近ごろではなかば貴重品となった湯につかっていると、男が入ってきたのがシャワー・カーテンごしにわかった。
「ぼくので合うかどうかわからんが、置いとくよ」
あがってみると、今まで着ていたもののかわりに、乾いた服一式が置いてあった。さいわい、身長はほとんど同じくらいだった。
居間に行ってみると、暖炉に火が入っていた。濡れた服は椅子の背にかけられている。その椅子の脚に、アルフレートは後生大事に抱えていた書類袋を立てかけた。
男がろうそくを手に戻ってきた。
「ありがとう……。雨がやんだら、すぐ出ていくよ」
「どうして? どうせ急ぎの用事じゃないんだろ、服が乾くまでいればいいじゃないか」
「だけど……」
「こっちも退屈してたところなんだ」
男は人なつっこい笑みをうかべた。黒に近い濃い茶の髪と青い瞳。笑うと子どもっぽく見える。
「なにか飲む? 体をあたためるにはてっとりばやいだろ」
「いいのか?」
「遠慮することないさ、ええと――」
「アルフレート」
「そう、名前を聞いときたかったんだ。ワインでいいだろ?」
男は地下からワインを一本とってくると、テオドールだよ、と名乗った。
灯火管制で照明をおとしているので、部屋のなかは暗かった。暖炉の炎とろうそくの光があちこちに反射して、やわらかなかげをつくる。
アルフレートはシャツのいちばん上のボタンをとめていなかった。急いで出てきたので、くっきりした鎖骨のくぼみには水滴が溜まっていた。シャツの生地は薄く、それほど厚くない胸板がうっすらと透けている。
アルフレートは部屋のなかを見まわして、
「ご家族は?」
「コブレンツの叔母の家が爆撃で被災したっていうんで、両親は見舞いに行ってる。しばらくは帰ってこないだろ。ぼくは仕事があるし、それに、ひとりのほうが気楽だからね」
「それは、大変だね。……仕事は?」
「郵便屋さ」
「このあたりの管轄?」
「いいや、もうちょっとむこうのほうさ」
テオドールは手ぶりで指し示した。
「きみの仕事は?」
「印刷業だ」
「ああ、新聞なんかの?」
「そんなたいしたものじゃない。ちらしとか、パンフレットとか、そんなものを刷るんだ」
「それじゃ、さっきは、それを届けにいく途中だったんだろ? 映画のちらしとか?」
「ああ、そんなところだよ」アルフレートはくちびるの端をかすかに上げた。「ポスターとかね」
「浴室にまで持ちこむなんて、よっぽど大事なんだな」
アルフレートはそれには答えずに、笑った。
「仕事熱心てことなのか? こんな時間に?」
「ああ、まあね……。その、期日にまにあうかどうかぎりぎりだったからさ。父さんが、届けるなら早いほうがいいって言ってね」
「ふうん。それじゃあ、うちに電話しておいたほうがいいんじゃないか?」
「そうできるんならありがたいよ」
「電話なら、廊下にあるよ」
アルフレートが電話を終えて戻ってくると、テオドールは床の上にじかに座り、ソファに寄りかかっていた。毛布を腰に巻きつけている。グラスには二杯目のワイン。
「無理を言ったかな?」とテオドール。
「いいや」
「家の人はなんて?」
「電話できたってことで、安心してたよ。あまり遅くならないように、ということだったけど」
「ひとりもいいけど、つまらないだろ。仕事場にも、ぼくは外勤だから、話す相手があんまりいなくて」
「そうだろうな」
こういうご時世なので、若い人手は足りなくなっている。ヒトラー・ユーゲント出たてのようなこの青年が郵便局員におさまっていられることを、アルフレートは奇跡のように思った。
テオドールが気さくに話しかけてくるので、アルフレートは彼のとなりに座った。ワインをついでもらい、めったに飲めない味に少なからず感謝しながら、つきあって何杯かあけた。
話題はとりとめのない話から、文学にとんだ。ベルリン・オペラ広場で焚書が行われても、ためこんでいた数多くの作品を読んでいたアルフレートの言葉に、テオドールは素直に感嘆したようだった。
テオドールの両親も文学には理解のある人たちのようで、居間の書棚には何冊もの外国作品や、すぐれたドイツ文学者の著作が並んでいた。
その子どもも本嫌いではなかった。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』はあるか、とアルフレートが尋ねると、テオドールは顔を輝かせた。
「それなら、さっきまで読んでいたんだ。ほら、そこの本に……」
からだをねじって前を横切る無理な姿勢で、アルフレートの側にある本に手をのばそうとしたとき、床についていた手が、アルフレートの手にかさなった。
「あ、ごめん」
アルフレートは手をひっこめなかった。どぎまぎしたのはテオドールのほうだった。
彼はいやがっていない? ホモだと思われたら……?
ふたりの視線が何秒間か交差した。
アルフレートのほうが先に目をそらした。金色のやわらかな光がちらちらする、茶色の瞳。
ふたりの手はまだかさなったままだった。アルフレートの手はほっそりとしていて、そのぶん、テオドールのよりも少し大きかった。甲はひんやりと冷たい。
反対に、熱っぽいようなテオドールは、アルフレートの手をとった。
カスタード・クリームのようになめらかな乳色で、繊細な指は、くちづけると石鹸の匂いがした。
「――ごめん」
テオドールはもう一度あやまった。
アルフレートはなにも答えなかった。
金色がかった茶色の瞳が、まばたきもせずに、テオドールをみつめる。
テオドールがくちびるをよせた。ほんの二、三秒のことだった。アルフレートのまつげが何度かぱちぱちいった。
「アルフレート、その……」
くちびるを離すと、テオドールは相手の顔をまともに見られなくなっていた。
「きみは、」と、アルフレートが口を開いた。
とがめるような響きはなかった。彼は体を少しずらし、立膝から脚をくずした。テオドールがその体を押すと、抵抗らしい抵抗もなく、ふたりは床に倒れこんだ。
アルフレートは素早く毛布をつかむと、自分たちの上にかけた。
「……言っておくけど、」テオドールが、自分の貸したシャツを再び剥ぎとろうとしているのを、アルフレートは押しとどめた。「これ以上はだめだ。……ぼくがやる」
片手でテオドールの手をおさえ、自身の若い昂ぶりに導いてやりつつ、もう片方の手でも相手を包みこんで刺激する。
テオドールは何度か、自分を愛撫している相手に触れたそうにしたが、しばらくしてあっけなく達した。
きまりわるげな相手が、胸に額を押しつけてくるのまでを、アルフレートは拒否しなかった。迸りを受けたてのひらは、相手のシャツのすそでぬぐった。
ふたりは折りかさなっていた。アルフレートはあおむけに。テオドールの腕は彼の頭をめぐっている。毛布が、彼らのしたことを隠していた。
気恥ずかしさからたちなおったらしいテオドールが顔をあげてきいた。
「
「二十一」
「ほんと? ぼくよりふたつ上だ」
アルフレートは立ちあがった。
「もう帰らないと。……服をありがとう。洗濯して返すよ。きみが仕事に行っていたら、置いておくから。それでいい?」
「服のことは気にしないでくれ、いつでもいいから。――アルフレート?」
アルフレートは一度だけふりかえった。ちょっと会釈して。
コートは乾いていた。シャツとズボンをまるめて抱え、外に出る。
雨はあがっていた。
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