第110話 彼女の根っこ
僕はずっと『仕方なく』で生きていたな。
妻が出す結論はおよそ想像がついている。
東北の寒村を見つめながら、スウトウは昔を思い出していた。
彼は清の山間の村の子。役人の父を持つ小金持ち。十分与えて貰ったし、愛しても、期待しても貰った。
恨み言など言いようもなく、文句を言えば罰が当たる、そういう環境であったが……
ただ、科挙の勉強を始めた4、5歳の頃、社会環境上それが正しいのだが、幼い自分に『本人の意思』などあるわけもない。
期待されるから、長男だから、『仕方なく』だ。
わずかばかりでも才能があった。成果が出るから続けた。
最後はどうしても届かない、足りない自分を自覚したが、すでに引っ込みがつかなくなった。
あとは惰性だ。
ジュンケンにも嫉妬した。申し訳ない。
父が急死して、生活のために日本行きを決めた。
行きたかったわけではない。
仕方なく、だ。
ただ『仕方なく』行き着いた先で、柔らかな光を手に入れて……
ゆきはもう、普段の調子に戻っていた。
家々から出ていた村人達を指さし、
「あそこ‼あれが私の家族です‼」と言った。
近いけれど、個を識別出来る距離ではない。スウトウには豆粒にしか見えない距離感で、娘だから分かるのだ。
曖昧にうなずく彼に、
「見ての通り、今はもう、父と母、あと兄しかいないようです」と、真顔を見せた。
「ゆきの家には、たくさんの兄弟姉妹がいるって、聞いたけど?」
「はい。あそこにいる以外には、姉が2人、妹が1人、弟が2人います。いや、いました。」
「?」
「生活のため、私の後に全員売ったんでしょうね。」
「へ?男の子も‼」
「男の子は金銭にならなくても、いるだけで食費がかかりますから。丁稚奉公に出され独立させられたのでしょう。女の子は娼館です。」
海風で髪がなびく。
悲しげにも、当たり前と納得しているようにも見える、美しい横顔。
彼女は黙って村を見つめ、意を決したように向き直る。
スウトウを見て、深々と頭を下げた。
「まずは、愛してくれてありがとうございました、旦那様。」
「え?ゆき?」
「あなたが愛してくれたから、愛される喜びを知れました。あなたが連れ出してくれたから、優しい人達にも会えました。ただ今まで流されるまま生きてきた、自分自身に気付けました。
本当に幸せだったんです。」
楽しかった。幸せだった。失いたくない。けど……
「そしてごめんなさい、旦那様。私は清には行けません。私の根っこはここにあります。」
ゆきは、スウトウが予想した言葉を口にした。
「今更家族を救おうとか、そんなことは思いませんが……
私だけ幸せになってはいけないとも思いません。ただ、私だけ関係のない場所に行くのは嫌です。根っこが抜ければ植物は枯れます。離れ過ぎれば偽りの人生になりそうで……」
別れの言葉を口にしながら、いつも笑顔のゆきがポロポロ泣いた。
別れ難く思っていて、しかし流されまいと、意志を強く持とうとする姿は気高くもある。
いつも『仕方がない』で流されてきた、スウトウだから余計にわかる。
こんな人を、失いたくは決してない。
「大丈夫だよ、ゆき」と抱き締める。
髪をなでた。
「あなたは僕の奥さんなんだ。あなたの問題は僕の問題。だから、」
「……?」
「僕が残るよ、日本に。」
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