第93話 霧の中の竜

 『俺は思っていたよりも駄目だなぁ』と、少年は思う。

 ジュンケンは僧堂の捨て子だ。

 おかしな話、『死』には慣れている。

 死んでしまった後、ならば。

 けれど、今まさに逝こうとする者を前にして、少しも冷静でいられなかった。

 さくの為にも死んで欲しくはなかったから、焦りに振り回された。

 焦らない、自称・姉を思う。

 どれだけの苦労をして、どれだけの修羅場を踏んできたのだろう?

 小さいけれど、はるかに大きな姉を思う。


 「さくさん、ちょっと。」

 父親の呼吸が安定したのを確認し、ゲツレイがさくを家の外に呼んだ。

 人は死に際、目が見えなくなっても、食べられなくなっても、意識が保てなくなって尚、聴力だけは残るという。

 耳だけが敏感になって、周囲の情報を拾っているというので、

 『聴かせたくなかった』のが本音だろう。

 空は白み、風が冷えきっていた。

 日に日に冬が深まっていく。

 「わかっていると思うけど」と、ゲツレイ。

 「お父さんは今日は大丈夫だったけど、いつどうなるかわからない。明日逝くかもしれないし、持って数ヶ月くらいだと思う。」

 「……」

 大きく目を見開くさくに、困ったようにゲツレイが、

 「私は医者じゃない。ただ前にいた場所で、同じように死んだ者を何人も見た。だから感覚で、確実じゃないが……」と、言葉を濁す。

 「ああ、いえ。覚悟はできていたんです。」

 さくは少し唇を噛み、耐えるように絞り出した。

 「できていたはず、なんです」、と。

 「父さんがそう長くないことは重々承知していたんです。でも、いざとなったら……」

 「我慢できなかった」と、肉親の死を前にした彼女の告白に、

 「なら、うちの弟を頼ればいい。」

 「ジュンケンを?」

 「ああ、今回も訪ねてきてくれたろ?この先も頼れ。馬鹿だけど、真っすぐな弟だ。きっと君の役に立つ。」

 「……馬鹿ですか?」

 「ああ、馬鹿だ。」

 「そう、ですか。」

 優しいのか、厳しいのかわからないセリフに、さくが少し笑ってくれた。

 笑えたのが大きかった。


 そしてそんな2人を、少し離れてジュンケンは見ている。

 ゲツレイには、いつも助けられてばかりだ。

 上海で出会った時、少年は少女を助けたつもりだったが、その後の実力を見るにつけ、必要なかったのでは?とさえ思う。

 思っているより何も出来ない矮小な自分に、らしくなく、気分が落ちそうになる。

 春になれば国に帰る。

 そこまでに何かをなせるだろうか?

 そして俺はこの人を、近々父親を亡くして天涯孤独となるこの人を、1人放っていけるのだろうか?

 でも、ならば残ると即決するのも違う気がする……

 少年は悩みの中にいる。

 竜は霧に包まれる。

 五里霧中だ。

 苦しくとも、分からなくとも、とにかく進むしかなかった。

 時間がない……


 しかし、少年は知らなかった。

 彼は更なる厄災に見つかってしまう。

 あばら家の前で会話する一同を、離れた場所で身を隠し、観察する男がいる。

 「やっと、見つけた」、と。

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