第92話 枯れてなお

 「‼」

 あばら家の扉を開けた途端、濃厚な死の香りと、枯れた木が見えた。

 「おっちゃん‼」

 間に合わなかったかと駆け寄ろうとしたジュンケンを、

 「待て‼」と、制すゲツレイ。

 「よく見ろ、ジュンケン‼葉がついているだろう?」

 人のイメージを映像で見る、2人にしかわからない会話だ。

 今結核に殺されかかっている、さくの父親の背後には『枯れた木』。

 強風にあおられ今にも折れてしまいそうなのに、たった1枚、辛うじて葉が付いていた。

 それが散ったら終わり。あたかも『最後の一葉』のように。

 「慌てるな、生きているよ。」

 ゲツレイは改めて口と鼻を手拭いで被い直し、粗末な布団に寝かされた、弟の想い人の父親の傍に座る。

 彼の様子を観察した。

 「……」

 見えているのかいないのか、彼はゲツレの方に顔を向けたが、……反応はない。

 浅く荒い、苦しげな息。

 必死で吸おうとするもあまり空気が入らないのだろう。

 結核は肺だけでなく、最後の方は全身をむしばむ。

 発熱しているのはリンパに回ってしまったせいか?

 末期の状態だとは分かっていた。

 しかし、それが今晩ではないのなら、少しでも楽にする、その方法は知っている。

 「さくさん。」

 立ち上がって、歩み寄る。

 完全初対面である、さくが少したじろいだ。

 「はい?」

 「私はソンゲツレイ。ジュンケンの姉で、大使館の同僚でもあります。」

 清国語でも日本語でも、基本ぶっきらぼうなゲツレイにしては丁寧な話し方だ。

 コウジュンケンと、ソンゲツレイ。

 家名が違う姉弟だが、そこを突っ込む余裕は混乱中のさくにはないと判断した。

 「ゲツレイと呼んで下さい」と、ペコリ頭を下げた後、

 「で、煮炊きする場所は?」と切り出す。

 「煮炊き?」

 「あ……えーっと、台所?」

 「あ、はい。」

 「ならそこで、お湯を沸かして欲しいのですが。」

 「お湯?」

 訳が分からない風のさくに、異国語で、しかも普段と違って丁寧に喋るという縛りがきつ過ぎたのか、

 「あー、……すまん、口調戻す。普通はこんな話し方はしていないんだ」と、ゲツレイは困ったように説明を続けた。

 「冬だから、空気が乾燥している。」

 「?」

 「肺が弱っている人には厳しい環境だ。」

 言われて初めて思い当たった。

 夏の暑さと湿気が凄まじい時期、冬の寒さと乾燥が凄まじい時期、極端な時期に人は亡くなる。

 健康だと気付かないが、乾燥も行き過ぎれば呼吸し辛い。

 「わかりました‼」

 台所に走り、湯を沸かしだしたさく。

 「少し寒いが、空気を入れ替えよう。」

 ゲツレイが扉を大きく開け、室内に清浄な空気を引き込んだ。

 適度に湿り気を帯びた空気に変わり、彼が落ち着きだしたのは明け方、空が白み始めていた。

 「あとは君が、この家の薪をたっぷり補充すればいい。」

 とりあえずの危機は脱した。

 ゲツレイの軽口にも思える言葉に、

 「わかったよ」と、ジュンケンも笑う。


 やっと笑えた。

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