第86話 鍛冶屋の引っ越し
かんざしを買って1週間。
ジュンケンとゲツレイは連れ立って鍛冶屋を訪れた。
あの、攘夷事件の時の、ゲツレイが癒し?を求めて訪れる鍛冶屋だ。
店は、売れるものは全て売ってしまったのだろうもぬけの空で、朝日でなく夕日だったら物悲しくなる、そんな有様だった。
「おっちゃん‼」とジュンケンが大きな声を出すと、
「おお。お前ら、来てくれたのか?」と、出てきた鍛冶屋はすっかり旅支度だ。
一応は武士である彼は、菅笠、紋付き袴、手甲、脚絆、帯刀している。
日用品を入れた行李を身に着けていた。
彼は今日旅立つのだ。
かんざしを買った後鍛冶屋に向かったゲツレイは、周囲の家が歯が抜けたのように無くなっていることに気付いた。
江戸は今、一気に作り直されている。
どうやら鍛冶屋のあるその一帯も、区画整理にあったようだった。
鍛冶屋は早くに妻を亡くし、更に1人息子を亡くしたばかり。
仕えていた幕府は終わりを迎え、もう江戸にこだわる気はサラサラなかった。
「俺の親はもう死んでいるが、亡くした妻の親は健在でね。」
彼らは岐阜に暮らしていた。
刀鍛冶で無くとも、農具の目立てや研ぎなら出来る。
それとなく打診し、
『是非に』と返事をもらったばかりの、店の明け渡し要求だった。
「渡りに船だと思ってね。」
鍛冶屋は気負いなく笑って見せた。
彼を見ると、『魚籠にとらわれた魚』が見えたが……
今は泳ぎだそうとする姿に変わった。
どうやら嘘はなさそうだ。
「これ。」
短過ぎる一言と共に、ゲツレイが代表として根付けを手渡す。
「旅の前だから、大きなものは止めようと思ったんだ。一応、俺とこいつで選んだんだよ」と、ジュンケンが補足した。
根付けは、木を彫った在り来たりのものだったが、その意匠が『炎』だった。
鍛冶屋のことを思ったとわかる。
「ありがとよ、お前ら。」
そう言って男は、ジュンケンに黒い鞘の小刀を、ゲツレイに白い鞘の小刀を押し付けた。
「えっ、ちょっと‼」
「見送りに来て、もらっちまったら‼」
慌てる2人に、
「いいから」と笑い、
「俺が刀鍛冶としてやった最後の仕事だ。お前らに託すぞ‼」と、彼は振り返らず、一方通行の戻らない旅に出かけて行った。
ゲツレイのものは切れ味重視、長さも彼女が理想とする短めの一品で、鏡のようにガラスのように、透明感すら感じる業物だった。
ジュンケンのものは強さ重視、刃は付けてあるがほとんど飾りで、切るというより『折れないこと』に特化していた。黒く、脇差より小さく見えるのに見た目より重量を感じる、一品。
決してもう会わない別れを、寂しく感じるか、まだ見ぬ新しい日々に希望を感じるのか?
若い2人だが少しばかり物悲しく感じた。
変わりゆく世界が嫌だった。
しかし……
それは大きな間違いになりかねない。
鍛冶屋の行く末を祝し、笑顔で見送るのが吉と思った。
ただ、1度始まった変化は、相対的に他の変化も加速させる……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます