第60話 遅い雪解け

 結論から言うと……

 スウトウは間に合わなかった。

 話を聞いた大使は、翌日には250両準備してくれた。

 「奪い取るならプラスアルファがいるだろう」、と。

 後は吉原に行けば良いだけなのに、変なところで生真面目な彼は1週間待ったのだ。

 スウトウが週に1回、決められたタイミングでしか吉原を訪問しなかった理由は、それが休日前だったからだ。

 時代背景から言っても、今でいう『週休1日』なんてはっきりしたものではない。何かあればすぐ反故になる休日で、何もなければ数日間休日めいた日が続く勤務体制だが、青年は一応のペース配分をしていた。

 きっちり性格の賜物である。

 ただ、これが今回は裏目に出た。

 いくらスウトウがきっちりしていても、相手までそうとは限らないのだ。

 しかも娼館、お金で人をやり取りする場所だ。

 金さえ支払われれば、10日後なんて約束無いも同然なのだ。

 「えっ‼いないって?」

 対応したのは番頭で、憐みのような悲しい顔を見せた後、

 「はい。中野様の都合で……」と、続ける。

 「でも、10日後だって……あと3日あったんじゃ?」

 「はい。まだ期限まではございますが、昨夜中野様の使いの方が見えて。」

 「……」

 「身請け金も受領いたしましたし、後は……」

 金銭の授受が済めば、娼館側の都合など関係ないと言うのだろう。

 喪失感で声が出ないスウトウの耳に、さらに残酷な一言が響く。

 「連れ出される時、あのおとなしい雪乃が少しだけ抵抗しました。『あと1日だけ』と。

 多分、あなたを待っていたのだと。」

 ああ、僕は馬鹿だ。

 理を曲げられない。

 おかしな部分に拘って、為すべきことを成さなかった。

 どうしようもない……


 と、泣き明かしたのは前日の事。

 「馬鹿だな、お前は」は、ジュンケンだ。

 いや、お前に言われたくない。

 考えなしに日本まで来て、武士になれない、人殺しになれない自らに気づいた。

 「本当に馬鹿だな」は、ゲツレイ。

 いやいや、あなたにも言われたくないよ。

 後先考えずに他人を守った。

 それで自分が死ぬような思いをしている、あなたには。

 その日は何の仕事もなく、3人で大使館の前の庭に出ている。

 清国大使館は元々旅館だった建物ならではで、整備された小道を含む庭のスペースがあった。

 春先に日本に着いた。

 高い空、ギラギラした日差しが夏は近いと教えてくれる。

 力が抜けてしまい日に当たっていたスウトウは、いつか少年少女に挟まれていた。

 おそらく心配してきてくれたのだろう。

 喪失感は変わらないが、少しだけ嬉しい。

 スウトウが小さく笑えた時、

 「おおい‼皆さーん‼」と、向こうから近付いてくる見知った顔が。

 「ああ、じいちゃんと宗近だ。ん?」

 「誰かいる。」

 年少組もその存在に気付いたが、驚き過ぎたスウトウは立ち上がってしまう。

 「え?なんで?」

 「?」

 「スウトウ?」

 宗近が連れてきたのは白い白い少女だ。

 吉原を出て化粧っ気を無くせば、むしろその白さが際立つ。

 長い髪を下ろしている、当たり前の町娘の装いで、困ったような泣き笑い。

 ゆきがこちらに向かってくる。

 「スイリョウさんもそろそろ事務官したいでしょ‼女中候補連れてきましたぁ‼」

 話し方がいつもと違う。

 藩主の跡継ぎじゃなく普通の青年のようで、要は宗近の『どっきり』なのだ。

 ゆきを身請けしたのは宗近だ。

 そう言えば、あのお付きの人の名前は『中野』だった。

 質が悪い……

 イライラしないでもないが、怒るよりも嬉しかった。

 「ゆき‼」と駆け出すと、

 「カクさん‼」と、向こうも走り出してくれた。

 抱き合って喜ぶ姿に、

 「ああ、あの人がスウトウの好きな人か」と、なぜか訳知り顔で少年が呟き、

 「ふーん。ああ言う表現も出来るんだ」と、感情を表すことが苦手な少女がまぶしそうな顔をする。

 いたずら成功とばかりに得意げな宗近と、おそらく保護者を怒らせることは予想出来ている、困り顔で目を伏せる中野。

 「あの馬鹿、後で殴る」と、相変わらずの飲酒中だ、2階から見ていたスイリョウが声に出して……

 少し笑った。


 夏が近い。

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