第57話 抱いてほしい
ゲツレイが理想的な新しい小刀を手に入れた頃。
ついでに、
「研ぎ直しだし料金はいらん」と言われ、新たに翌月の月給も発生、1朱銀が15枚になって遠い目をしている頃。
スウトウは1分金を握りしめ吉原へと向かった。
前回会えなかったことは残念だけれど、
『余裕が生まれたと思えばいいか』と、理屈屋らしい言い訳をする。
自分が会いたい女性を、誰かが商品として抱いている事実。
あの場所は娼館であり、それはどうしようもない事実だったが……
どうしてかイライラして、モヤモヤする。
それは嫉妬であり独占欲だが……
いまだ自らの気持ちにすら手探りな、どこまでも恋愛初心者なスウトウだった。
久しぶりに会える、思い人の元へ向かう青年だったが……
「抱いて下さい」
急に頭を下げられた。
薄衣1枚で、しっかりついた三つ指に強い決意が感じられ……
いや、最初からそんなものは必要ない、ここは娼館なのだが、基本気弱なスウトウは一瞬ひどく動揺する。
しかし、こんな時にも優しく、どこか寂しく見える柔らかな表情に、少し落ち着いた。
この押しの弱い男が、
「どうかしたの?」と、気遣えるくらいには。
雪乃は微かに笑い、
「もうお会い出来なくなります」と、言った。
「私を身請けしたいという旦那様が現れました。」
「え?」
「あと10日でこの店を出ます」、と。
その後も訥々と話してくれた、彼女の言葉で理解が進む。
この店で働く女達は、多くは親に売られてきた。
店、または仲介に入った人買い達は、対価を親に払い、その金額プラスアルファが彼女らの借金となる。
借金を返し切るまで体を売り、完済すれば年季が明けて自由になるが、ごくまれにそれより前に、相当な金額を積んで彼女らを買い求める男がいる。
借金の差額どころか、その後彼女らが生んだであろう利益まで乗せてあるからあり得ないほどの高額で、それを一括で払えた者が新たな彼女らの所有者になる。
まれに正妻にと請われることもあるが、多くは金持ちの道楽で愛妾が関の山だ。
それでもその後相手にするのはただ1人でよく、生活も保障されるので遊女を続けるより数倍は良い。
「中野様という方がお身請けしたらしいのですが、心当たりがありません。」
その後生活を共にする可能性がある存在でも、遊女たちに権利はない。選べないし、断るのも難しい話なのだ。
身請けが決まった以上、客を取る必要もないのだが、雪乃はスウトウを待っていた。
それが愛か恋か知らないし、名付けようのない感情に支配され、いま彼女は『思い出』を望む。
絶対に……
絆を結ぶべきである。
逃げられない、逃げるべきでない局面に、しかし、これがスウトウなのだ。
獣欲に身を任せるのは簡単だ。
しかし常に正しい道を探し、理に縛られる青年は、この理不尽を覆したくなる。
馬鹿なことも分かっている。
自分自身も家に縛られ、受からない科挙に縛られ、行き場をなくしているからこそ‼
気弱なのに変なところだけ強い反骨心と、理に対する潔癖さが選んだ結論は?
「あと10日はいるんだね?」
「はい。」
「なら1週間後また来ます。僕にあと少しだけ抵抗させて下さい。あなたの道を探させて下さい。」
あふれ出る思いのままに、腕は雪乃を抱きしめる。
柔らかくて大好きで、ずっとずっと傍にいたい。
それでも……
どうしても……
どうせ無理だと分かっていて、それでも気持ちを受け取った女が泣き笑いで頷く。
スウトウは、9分9厘身請けされる、彼女に言うべきでない、しかしどうしても伝えたい言葉を口にした。
「はい。お待ちしております。」
「愛しています、雪乃さん。」
「……ゆき、です。」
「はい?」
「本名はゆき、なので。」
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