第45話 雪を抱く
一方時は少し遡り、吉原のスウトウは?
青年は流されるまま部屋に入っていた。
男女が一夜を共にするための部屋。
高級店らしい、色柄も派手なキレイな寝具が敷かれている。
灯された行灯は赤が強く、なまめかしい。
そう、本当にそのためだけにある部屋に、人生で初めて上がっている。
心は千々に乱れる。
スウトウは28歳童貞だ。
科挙試験に全てをかけた。勉強しかしてこなかったし、他に割く余裕などありはしない。
それほどに困難で過酷なのだ、科挙試験は。
欲も興味も全て捨てて……と言うか、血の涙が流れるほどに、頭の中が白く染まり熱を持ち、勉強以外何も考えられない日々の中、そちらの欲を感じている隙はなかった。
生命の危機を感じると本能的に高まるらしい性への衝動が、それでも起こらないほどには追い詰められていたのだ。
「……」
無言のまま、すっと雪乃が着物を落とす。
浴衣のような、白い薄物1枚となり、そういう場所だと、それが彼女の仕事と分かっていながら胸が高鳴る。
スウトウ自身はそれを『是』とはしていないが……
科挙の重圧から強制的に逃れ、山間の実家で食べていたより良い食事をとり、以前よりは圧倒的に睡眠もとれる今の環境が、魔法使い?の青年に一端の欲を思い出させたのだ。
え、いいのかな?
僕、この人を抱いていいのかな?
いや、抱きたい‼
男として蹂躙したい‼
頭の中は獣じみた妄想に溢れる。
銀髪銀目で派手なのに、彼女は優しいほほえみを絶やさず、そこだけが昼間のように穏やかだ。
いいのかな?
本当にいいのかな?
躊躇いながら雪乃に近付いていくスウトウは、しかし、どこまでのスウトウだった。
悪く言えば『ガリ勉の秀才』。
そして究極の朴念仁。
頭が欲で満たされたはずなのに、何より気になったのは布団の脇にあった1冊の本だ。
「あ?」
雪乃に行く筈が本に行った。
しゃがみこんで拾い上げる。
さすがにこの反応は初めてだった、
「どうしましたか?」と、雪乃が訊く。
「これ、本‼」
「あ、はい。」
「これ、君の?」
「以前お客様にもらいました。里見八犬伝。」
『里見八犬伝』なる物語は知らないが……
そこに本を楽しむ人がいる。
それだけでスウトウには十分だったのだ。
「読めるの?」
「あ、はい。難しい漢字とかは無理ですけど、仮名くらいなら。」
逆に仮名しか読めないから、この1冊を読むのにもう半年以上かかっていると、雪乃は笑った。
瓦版や、触書の文化があるためか、日本の識字率はかなり高い。
そしてスウトウにとっても、本を読み新しいものに触れようとする、その存在そのものが愛おしい。
残念ながら清国からの仲間達に同じタイプはいなかった。
「じゃ、さぁ‼僕が漢字は教えるから、君は仮名を教えてよ‼」
「え?でも、外国の方じゃ?」
「今は違うけど、僕、元通訳だよ。」
少しだけ誇らしげに言った、好きにしてよい『女』を前に『本』の方にひかれた変わり者に。
少しだけ笑った雪乃だった。
「わかりました。お願いいたします。」
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