第32話 今日から始まる江戸ライフ

 清国大使館になる建物は、元々は由緒ある旅館だった。

 大き目の玄関。

 1階には広めの部屋が数室あり、大人数を泊める場合にも使用した筈だが、宴会や会合にも使われていたようだ。

 男女別の浴場や、調理スペースもある。

 便所も室内からいける。

 畳敷きの部屋に便器がある、清国一行には馴染みのない、しかし宗近などには親しみのある、武家屋敷のつくりだ。

 そして2階が元の客室。

 扉を開けるとそれぞれに畳敷きの部屋が2室あり、それが都合20部屋あった。

 「この先人を雇うかもしれんし、ちょうどいいな」とは、大使の弁。

 階段が中央にある作りで、左右に10部屋ずつある内の、奥から大使、スイリョウ、逆奥からスウトウ、ジュンケンが陣取った。

 「私はここでいい」と、ゲツレイが選んだのは階段前だ。

 「駄目だよ、ゲツレイ。あなたはあたしの隣」と、スイリョウが止めた。

 「でも?」

 「いいのいいの。ゲツレイ、用心棒とかするつもりでしょ?」

 言われた途端、本当にポーカーフェイスが続け難くなったようだ、瞬間困った顔を見せた少女は、

 「私だけ何もしていないから」と、小さく呟く。

 「いいの。ゲツレイはあたしの妹‼家族枠‼」

 「でも……」

 「いいから‼仕事って言うなら、泣くほど辛い思いをしてまで守ってくれたじゃない‼あれで充分数年分働いてもらったよ‼

 ね?父さん‼」

 「ああ、それでいい。」

 「ほら?」

 結局押し切られる形で、ゲツレイの部屋は大使親子側に決まった。

 「沸かしてもらっているみたいだし、ジュンケンとゲツレイはまずは湯浴みしておいで。」

 「え?」

 「……?」

 「2人とも血塗れだから。」


 促されるままに浴場に行き、到着直後のバタバタでスイリョウが来ないことを確認し(同性は彼女だけなので)、ゲツレイは裸になる。

 あの戦闘以降、脇腹の痛みが続く。

 絶対に傷が開いたと思ったのに、さらしは白いままだった。

 体表には変わらず赤い筋があるだけで、ただ以前よりその周囲が赤く腫れて見える。

 「中のほうで開いたか」と、独り言ちる。

 隣り合う男性用の浴場から、

 「うわーっ、広ぇっ‼」と浮かれた声と、バシャーン‼と派手な水音が響く。

 ジュンケンが飛び込んだらしい。

 彼は彼で相当な葛藤と失望があったとは思うが……

 弟とさえ思う相棒は、少なくとも表面上は元気を取り戻したようだった。

 傷も痛むし、湯船に入るのは躊躇われる。

 ゲツレイはかけ湯をして血を洗い流し、服を変えた。


 「一応当座の食料や調味料などは用意しましたが。」

 調理場で宗近が説明するが、いまひとつ歯切れが悪いのは本人が調理などしないせいだ。

 藩主の跡継ぎに調理スキルなど求めてはならない。当然だ。

 「まあ、器具類も揃ってるみたいだし、大丈夫でしょう」と、これまた意外なスイリョウが返す。

 「専属の人を雇うまではあたしがするよ」の言葉に、すっかり身ぎれいに戻ったジュンケンとゲツレイまで含め、大使以外は目を丸くした。

 酒飲みでガサツなスイリョウと料理、似合わな過ぎる。 

 大使だけは少しだけ悔し気に顔を顰めた。

 「まあ、出戻りだけど主婦だったこともあるし、料理くらいいけるよ」と、照れたように彼女は笑ってみせる。

 その夜は宗近が手配したうな重を食べた。

 「うめえ‼」

 人によっては苦手な醤油の香りも、ジュンケンはじめ皆大丈夫なようだった。

 脇腹の痛みから食欲がない。

 数口食べて箸が止まったゲツレイに、スイリョウがウナギの混ぜご飯のおにぎりを作る。

 意外に世話焼きな姿を見せた後、普段通り酒をあおっていたのはご愛敬だった。

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