第15話 かすみのすそを遠くひく

 船旅はついに7日目の朝を迎えた。

 上海から日本海側の港ではない、横浜港を目指したせいだ。

 ゲツレイは、甲板に出て足を投げ出し、座り込んで空を見ている。

 密航仲間のジュンケンは、『通訳』という役割ももらい毎日が忙しそうだが……

 ゲツレイにはやることがない。

 裏路地育ちで学はない。

 事務的な仕事は手伝えないし、船上ではその他の仕事がないのである。

 料理人や下働きを主とする船員もいて、手伝おうにも仕事がかぶる。

 「いいの、ゲツレイは。あたしの妹枠なんだから」と、スイリョウは甘やかしてくれるが……

 今までが今までだから落ち着かない。

 しかし、どうにもならないならと、体を癒すことに専念している。

 脇腹の傷は、まだ疼く。

 1度さらしを外してみたが、真一文字の傷は痛々しく、されど化膿してはいないしくっついてはいる。

 ただ、本来なら縫わなければならない広い傷、かろうじて閉じているだけで、無茶をすれば開く、それだけ。

 傷のことはスイリョウにもジュンケンにも、その他誰にもバレていなかった。

 日差しが温かさを増す。

 気にもしていなかったが……

 春が来ようとしていた。

 空を仰ぐゲツレイの視界を、スッと大きな鳥がよぎる。

 海鳥だけど……あれは……?

 カモメではないかと思った。

 ならば大分陸が近い。

 少女が上を見上げていると、

 「おい‼スウトウ‼いい加減に教えろよ、日本語‼」

 「嫌なこった‼」

 バタバタと、青年を追う密航仲間の声がする。

 視線を向けると、ジュンケンがスウトウを追いかけていた。

 ただ基本スペックが違い過ぎる2人、ジュンケンは子供でもからかっているような足運びだが、スウトウの方は息も絶え絶え。

 大使に『通訳』は解任されたわけだし、後釜に引き継ぐのが正しかったが、ジュンケンは勝手に部屋から持ち出した中日辞典と、このような船旅を何度か経験、片言が話せる甲板員の指導の下、すでにそこそこ話せている。

 それが余計腹立たしく、科挙コンプレックスの塊であるスウトウをむきにさせるのだ。

 『あれだけ甲板員の人を殴っておいて、すっかり馴染めるジュンケンもスゴイなぁ』とは、ゲツレイの感想。

 騒ぐ男達を、ウイスキーをあおりながらスイリョウも見ていた。

 そして同時に気が付いた。

 「あ‼」

 「あれ?」

 「山だ……」

 「あれは?」

 春先で、まだ雪をかぶっているなだらかな稜線を持つ山が見えた。

 日本を象徴する山だ。

 まだ高層建築など皆無の時代、海からはっきり富士山が見える。

 「いやったぁ‼着いたぁ‼」は、ジュンケン。

 「着いちゃったな……」と、ため息まじりはスウトウ。

 「……」

 「……」

 スイリョウとゲツレイは黙って見ていた。


 到着した。


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