第24話 私は『奥さん』だから
わわっ、跳んだ⁉
着地したのは、店々の
まるで、頭を撫でられているような。
その感触に、思わず涙ぐみそうになって。
だけど、泣いている暇なんかなく「着きましたよ~」と地面に着地した。バシャンッと水しぶきが飛んできて、まわりを見渡せば。
商店街の中央広場。本来ならお買い物客の憩いの場として賑わっているはずの場所が、野太い声をあげる男のひとたちでいっぱいだった。
「土嚢はまだか⁉」
「さすがに足んねーよ!」
「ひぃ、腰がいてぇ」
「この根性なしが! 浸水で店ごと腐ってもしらねぇーぞ!」
「女こどもは全員避難したか⁉」
「そこの女店主、無理するな。俺が代わろう」
――あっ。
その女性が運んでいた土嚢を半ば奪うように受け取って。
小綺麗な洋服は泥まみれ。桃色の髪まで乱した旦那様が軽々と土嚢を運んでいく。
「旦那様!」
私はコレットさんから飛び降りて、旦那様を呼ぶけど……旦那様は気が付いてくれない。重たそうな土嚢を運びながらも「追加人員はまだか⁉」「レッドラ公爵の名前を使っていいから、城に連絡してくれ!」などと懸命に指示を飛ばしている。
――あれが、本来の旦那様。
お貴族の紳士じゃない。泥まみれで働く、私の旦那様。
「旦那様っ! 旦那様ぁ‼」
私の声が届かない。流れる水の音で。懸命に働く男のひとたちの声で。私の小さな声なんて、簡単に掻き消されてしまうけど。
私は転ばないように気を付けながら、旦那様に向かって走る。
そして、喉が裂けそうになるくらい叫んだ。
「リュナンさまああああああ‼」
すると、旦那様がこちらを見てくれる。
青い目に私を映してくれたことが嬉しくて、思わず頬が緩んでしまった。
だけど、旦那様はすごくビックリしたみたい。
「ノ、ノイシャ⁉ どうしてここに⁉」
「はい、ノイシャです!」
土嚢を近場の男性に無理やり渡して、こちらへ走り寄ってきてくれる。
私も近づこうとするけど、やっぱり水に足をとられてしまって。転びそうになったところを、旦那様が受け止めてくれた。汚れた匂い。汗の匂い。旦那様の匂い。決していい匂いじゃないからこそ、今の私に勇気をくれる。
「お命じ下さい」
「何を?」
「氾濫を収めろと。ずっと水路の管理をしていたのは私です! 私、できます!」
私が胸に抱き込められたまま見上げると、旦那様はあからさまに眉根を寄せていた。
「だ、だがきみはもう聖女じゃ――」
「はい、私は旦那様の『らぶらぶ奥さん』です」
契約書に、そう書いてあるから。
私はもう聖女じゃないこと。旦那様の……レッドラ次期公爵の妻であると。
だからこその務めを、私は提言する。
「私は旦那様の『奥さん』として買われました。奥さんならば……旦那さんの助けをするのが務めですよね? 旦那さんであるリュナン様は、今この氾濫を止めようと頑張っているんですよね? 私はそのお手伝いをしてこそ、リュナン様の『らぶらぶ奥さん』なんじゃないですか⁉」
その結果、為すべきことがどちらでも変わらない――ただ、それだけのこと。
私はまっすぐに旦那様を見上げているのに、目を逸らされてしまう。
奥を見やる旦那様が話しかけるのは、私のうしろにずっと控えていてくれた――
「コレット‼」
「申し訳ございません、旦那様。奥様たっての願いでしたので」
「……おまえは、本当に俺の言うこと聞かないな?」
「はて? わたしは旦那様の『奥様に仕えろ』という厳命を第一にしているだけでございますが?」
そのセバスさんそっくりの物言いと仕草に、旦那様がため息を吐く。
そして私の両肩に手を置いてから、私にまっすぐ聞いてきた。
「……できるのか?」
「大丈夫です――契約通り、三分で終わらせます」
そう言いのけてから、私は旦那様に背を向ける。一歩ずつ向かう先は、蓋がとっくに外れて、小さな噴水のように泥水を吐き出している下水口の一つ。ひと一人が通れるくらいの大きさだ。
私はそこへ向かいながら、立てた指を動かす。
黄金のインクで空に文様を描きながら、ちょっとだけ愚痴を吐き捨てた。
「でも今日のボーナス、貰えなくなっちゃうなぁ」
「ノイシャ――」
旦那様から名前を呼ばれて、後ろ髪ひかれるような気がしながらも。
――さぁ。今日の仕事を始めよう。
頭をお仕事モードに切り替える。
マナの式を描き終わった私は、旦那様の手から逃げるように下水道の穴へと飛び込んだ。
私の体は薄い黄金のシャボン玉に覆われている。だから呼吸もできるし、水の勢いに反して行きたい方向に沈み、向かうことが可能。私はシャボン玉をふよふよ動かしながら、濁流の中を潜り、水路を進んでいく。
下水道の構造は、全部頭の中に入っている。
管理盤へと泳ぎながらも、その全域に私のマナを行き渡らせて――私は街へと溢れる水が、少しでも綺麗なものとなるよう変質していく。
管理盤は、そう遠くない。その板に書かれた式を確認すれば、やっぱり無駄に水量が増やされていた。きっと前に制御に来た人が、何度も調整するのが面倒だからと怠慢したのだろう。いっぺんにたくさん浄化すれば問題なかろう、そんな気持ちはわからないでもない。
私は即座にその式を修正する。普段よりも少なく、その代わり浄化の量も減らす。当面は使える綺麗な水が減ってしまうけれど、一日二日の辛抱だ。無事に浄化システムが正常の範囲内に戻れば、また元通り使えるはず。きちんと毎日、聖女が管理してくれれば。
――あ、そろそろ三分だ。
私は慌てて、そのまま水流に流される。穴から這い出るより、このまま下流の貯水池に出る方がラクだし早い。水流に任せるだけだから、自身にかけたマナも自己呼吸と衝撃防止膜だけで済むし。
だからぐーたらと……目を閉じて半分寝ていた時だった。
「……シャ、ノイシャ!」
身体が揺さぶられる。あぁ、いつの間にかシャボン玉も解除していたのか。全身びしゃびしゃで身体が重く、疲労感もあってすこぶる眠い。だけど目の前で、大の男である旦那様が泣きそうな顔をしているから。とりあえず、私は挨拶をしてみることにした。
「お、おはようございます」
「おはようって……寝てたのか?」
「お仕事が終わったので」
どうやら冠水は無事に落ち着いたらしい。まだ完全に水が引いているわけではないけど、ぴちゃぴちゃしているだけで窮地は脱したみたい。よかったよかった。
ちょっと寝たから、もう少し頑張れるかも。疫病が蔓延したら大変だからと、浄化の式を描こうとしたけど――旦那様に手を掴まれてしまった。
「もう働くな。大丈夫だ。きみがすぐに下水自体を浄化してくれただろう? あれでだいぶ被害は抑えられる見込みだ」
「それなら……いいのですが……?」
ぼんやりと応えると、旦那様が「そんなことより」といつになく大きなため息を吐かれる。
「こっちは元の場所に戻ってこないから、どれだけ捜したか――」
「捜す? 誰を?」
「ど阿呆! きみのことに決まっているだろう⁉」
――また怒られちゃった。
旦那様の大きな声には慣れてきた。だって、このひとは絶対に私を鞭で打たないから。
だから私は旦那様に抱きかかえられたまま、おずおずと尋ねてみる。
「あの~」
「なんだ?」
「気絶はしなかったので……本日分のボーナスはどうなるのでしょうか?」
今日はお買い物デートと下水道の修理、二つもお仕事をした。どのみちお買い物デート分だけでもボーナスは貰えるはずだったが……そもそもボーナスを支給される条件として『倒れないこと』があるけど、私は今回倒れていない。寝ていただけ。
すると旦那様は、いつになく眉根のしわを深くした。
「そんなに欲しいものがあるのか?」
「はい」
旦那様のお姿はさらにボロボロになっていた。そのお洋服、もう洗っても汚れがとれないんだろうなぁ。そこまでして、私なんかを捜してくれたのかなぁ。
――なんか胸がどきどきする。
この鼓動の速さの理由はよくわからないけれど。
旦那様からの質問に対する答えは明白だった。
「セバスさんとヤマグチさんに“お土産”というものを買ってみたいです」
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