第23話 「奥様」の使い方

 ――下水道の氾濫。


 懐かしい響きだった。きっかけは、私が朝にいただく泥水を『浄化』して飲んでいたのが、司教様にバレた時のこと。また『愚か者め』と鞭で打たれると覚悟していたら、その日は珍しく他のことを言われたの。


『その技術を使って、教会が営利特権を得られるような大開発をしろ』


 お金儲けとかはよくわからなかったけど、とりあえず大規模的に汚水を浄化できればいいらしいので、とりあえず禁書に書いてあったことを私なりに再現した。そうしたら、めちゃくちゃ司教様に褒められたの。


 たしか人生で頭を撫でてもらったのは、あの一回だけ。

 それでも、すごく嬉しくて。とってもとっても『やっほい』で。


 だけど、それはまだ聖女がしっかり管理しないと供給させられない代物だったから、一般の人々でも多少の管理や修理ができるように効率よくしようとしたの。だけどマナなしで使えるようにしたらダメだと言われて、そのままの形が国に提案され、採用された。


 そのため、私の午後の仕事は毎日上下水道の管理が加わったの。

 来る日も来る日も、暗い地下水道にひとりで潜る毎日。それでも正直、やりがいは一番ある仕事だった。地下に潜る穴まで行き来する時に見る街並みや人々が、みんな以前よりもっと眩しくなっていたから。まるで泥だらけの私でも、キラキラのキラの一部くらいは作れたような、そんな気がしたから。


 だけど当然、私は身売りされてから、上下水道の管理など一切行っていなかったから。


 ――だからやっぱり、一般の人々にでも管理できるものにした方が良かったのに。


 上下水道の安定のためには、地下にある管理盤に一定量のマナを注いでやる必要がある。その日の気温、温度、水温、水嵩の量などから判断して、マナの量や質の操作が必要になる。当然、その管理は聖女のみんなで分担することになってたんだけど。


 だけど他の聖女はみんな、地下の下水道に潜るなんて野蛮だと嫌がった結果――私が毎日地下に潜ることになった。


 ちょうどその頃から、人件費節約とか言って、孤児上がりから聖女に登用することがなかったからね。私以外を除いて、聖女はみんなお貴族様のご子息ご息女。見習いという雑用係が、孤児上がり。


 ご子息ご息女の面倒を見ているということで寄付金がたんまり貰え、無駄な出費はしない。その代わり、聖女の中の汚れ仕事を孤児上がり唯一の聖女の私が無償で引き受ける。私も育ててもらった手前、そんな生活が当たり前だと思っていたの。


 それこそ私に何かあって管理できなくなったら困るからと、司教様にも相談したんだけど。私は容赦なく鞭で打たれた。


『そんなもっともなことを言って、単純に仕事をサボりたいだけだろう⁉』


 司教様は、聖女なら誰にでもできることだと思っていたみたいだけど。

 実際氾濫したということは、誰にでもできなかったということだろう。


 ――どうすればいいんだろう?


 あの悲鳴を聞いたあと、旦那様は即座に事情聴取に向かってしまった。

 外に出ようとした時には、もう石畳の道に水がだらだらと流れていて。その時、旦那様の足が一瞬止まっていたのがずっと脳裏に残っていた。


「旦那様は……水が苦手なのでしょうか?」

「水というか……昔から泳げはしないですね。小さな時に川で溺れて。それがトラウマになっていると父さんから聞いてます。ま、この程度の水量なら溺れようがないので問題ないですよ」

「なるほど?」


 私はコレットさんと一緒に、高台に避難に向かっている。

 王都は王城を頂点に丘みたいな地形をしているから、城下に向かって坂を下ることになる。

 今回氾濫した場所は中央から下の部分なので、主に商店などの賑わう繁華街が直撃したとのこと。流れ聞いた話だと、今までは城下の俗にいう貧民層だったから、さして被害はなかったという。


 ――貧民層だからって、人が住んでいる以上大変は大変だったと思うけどな。


 だって今も悪臭が酷いし。この臭いってなかなか取れないんだよね。私はむしろ懐かしいなぁと思ってしまうけれど。コレットさんなんかずーっと鼻の上にしわを寄せている。


 私はコレットさんに手を引かれながら、人だかりの中を進んでいた。避難ということで、みんな考えることは一緒らしい。女の人やこどもは高台に避難して、男の人はその場に留まり、土嚢でお店を守るなり、あふれ出る下水道の穴を塞ごうと試みたり。


 氾濫といってもそこまで濁流になっているわけではなく、足首くらいの高さの泥水が坂道を流れている程度だ。それでも私なんかじゃ、ちょっとした油断で足を取られてしまうから……コレットさんに手を引かれていなければ、あっという間に転んでいたことだろう。


 そんな中で、コレットさんの口調はいつも通り明るかった。


「せっかくのデートだったのに、とんでもないことに巻き込まれちゃいましたね~」

「旦那様、大丈夫なのでしょうか……」


 旦那様は復旧作業に手を貸しているだろう、とのコレットさん談。

 いつも小綺麗な恰好をしている旦那様。身体も大きいし、騎士なので剣も使えるということだが……あんまり戦ったり、汚れたりするイメージはない。


「旦那様は次期公爵である前に、今は騎士団員ですから。こうして王都でトラブルが遭ったときは、民の避難誘導やトラブル解決に尽力するのがお仕事なんですよ~」

「お仕事……」


 ずっと、モヤモヤしていたの。

 私が作ったキラキラが、今こうして人々を苦しめてしまっている。


 当然、私が悪いんじゃない。私は聖女の仕事を辞めさせられた身。そのあとに起きた不祥事なら、当然私は無関係なはずだ。私がモヤモヤする必要はない。


 だけど、


「私のお仕事……」


 それなら、今の私のお仕事は何?

 街のひとと一緒に、困るのが仕事?


 ――私なら、この状況をどうにかできるのに?


「コレットさん、私のお仕事って、旦那様の『らぶらぶ奥さん』ですよね?」

「まぁ一応、そうなんじゃないですかねぇ。でもあんな契約なんか気にしないで気楽に――」

「畏まりました」


 私はコレットさんの手を振り払う。そして即座に踵を返した。だけど、やっぱり冠水で足が滑って転んでしまう。


「ノイシャ様⁉」


 コレットさんが慌てて脇の下に手を入れて、助け起こしてくれる。私はしょんぼり謝罪した。


「ごめんなさい、せっかくのお洋服が……」

「そんなのはどーでも――」

「でも……」


 私はまっすぐコレットさんに訴える。今も道の真ん中で立ち止まって、避難するひとたちの邪魔になっている。それでも、私が行きたい方向はそっちじゃない。


 じっとその場で踏みとどまり、下ろした両手を固く握っていると。

 コレットさんがスカートが濡れてしまうことを厭わず、その場で膝を曲げる。そして私と視線の高さを合わせて、微笑を浮かべた。


「ねぇ、ノイシャ様。ご命令ください」

「えっ?」


 私は目を見開くけれど、コレットさんの口調はいつもの軽薄な感じじゃない。

 優しいけれど、たしかに真剣だった。


「わたしは、あなた専用の侍女です。あなたに困り事があった時、願い事があった時、それを叶えるのがわたしの仕事です。ねぇ、奥様・・?」


 ――奥様。


 始めの頃、そう呼ばれていて。最近は名前で呼ばれて。

 だからわかるの。今、コレットさんはわざと『立場』で呼んでくれたということに。

 そして、それの使い方を教えてくれているということに。


「あの……コレットさん」

「はい、なんでしょう?」


 私は固唾を呑んでから、まっすぐにコレットさんを見つめた。


「私を、旦那様の所に連れて行ってください!」

「かしこまりました」


 足元が冠水しているというのに、コレットさんのお辞儀カーテシーはとても優雅だった。だけど直後、私をひょいっと肩に担ぎ「舌を噛まないでくださいね~」と走り出す。


 避難する人々たちとは逆方向に、坂を滑るように下って。そして助走を付け、バシャッと泥水が跳ねるほど強く踏み抜いた。

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