第15話 嬉しい。嬉しい。
♦ ♦ ♦
「ノイシャ……て、私のこと?」
「そうですよ、奥様」
とっくに馬車は出発したのに。
お仕事モードを解いても、ずっと見送ってしまう。
――名前で呼ばれた……。
たった、それだけのことなのに。
どうしてだろう。未だに胸がバクバクしている。
やっほい。やっほい。やっほい。やっほい。
一回じゃ足りない。やっほいやっほい。ずっと言いたくなってしまう。
コレットさんに『ノイシャ様』と呼ばれた時も、じんわり嬉しかった。
だけど……今回は敬称も付いてなかったから?
ノイシャ。ノイシャ。本当に、本当の私の名前。私はノイシャ。
コレットさんも……お願いしたら呼び捨てにしてくれるのかな?
それとも、さっきは『奥さん』していた時だから。普段からそう対等に呼んでほしいなんて、コレットさんにも旦那様にも、本当ならおこがましいのかな?
――でも、私も『奥さん』の時は旦那様のこと『リュナン』と呼ぶべき?
――明日までに、確認しておかなくちゃ。
確認項目を頭の中にメモしていると、セバスさんが咳払いをする。
「もしお嫌でなければ……私も奥様のこと『ノイシャ様』と呼んでもよろしいですかな?」
「え、あ……もちろんですっ」
もちろん、セバスさんも私の『ぐーたら生活』に欠かせない重要人物だもの。
私が頷くと、セバスさんが「ノイシャ様」と呼んでくる。それに「はい、ノイシャです」と応えると、セバスさんは私から顔を背けて、ゴホゴホと咳をし出してしまった。……やっぱり何かおかしかったのかな?
それでも屋敷の中に戻る途中で、
「ノイシャ……ノイシャ……」
くふふと笑いながら、思わず自分でも呟いてしまっていると。
「最後に、旦那様に挨拶すらさせてもらえないなんて……」
あんまりですわ~と、高らかに嘆く声が階段の上から降ってきた。メイド服ではない、高級そうなワンピースに身を包むマチルダさんたちだ。その手には大きなカバンも持っている。
――今日でお別れか……。
昨晩のうちに、旦那様が三人に解雇を言い渡したことを聞かされていた。なんともお仕事が早い……そんなマチルダさんが私と目が合うやいなや、声高に言ってくる。
「ノイシャ=アードラ! わたくしはあなたのことなんて、認めませんからね‼」
「はい、私はノイシャです!」
勢いで答えると、マチルダさんは「きぃ!」とハンカチを噛み締めてしまった。
……あれ? なんか私、また間違えた?
それに、セバスさんは苦笑を隠さない。
「正確に言えば、もうノイシャ=レッドラ公爵夫人ですがね」
「ふんっ!」
そして、屋敷から出ていくマチルダさんたち。最後まで靡いていたスカートの裾が綺麗だった。歩き方が綺麗なんだろうなぁ。思い返せば、どんな時でもずっと背筋を伸ばして、マチルダさんは綺麗だったと思う。
私はふと、飾りとして飾られているだろう豪奢な姿見に映る自分を見てみる。
小さい。背中が丸まっているから、余計に小さく見えるのかな?
マチルダさんのように、背筋を伸ばして――首も伸ばしてみた時だった。
「祝杯だああああああああ!」
――パンッ!
どこからともなく出てきたコレットさんが、掲げた瓶から何かを飛ばしていた。その瓶からは泡がしゅわしゅわと零れている。私は思わず駆け寄って、その泡を押さえた。
「わわ、こぼれる、こぼれる……」
「あはは~。いいんですよぉ、どうせわたしが自分で掃除するんですからぁ」
「ただでさえ個人の仕事量が増えたのに、自らさらに増やしてどうするんだか」
呆れたセバスさんが「お洋服が汚れてしまいます」と私を背中から持ち上げて、コレットさんから離す。わっ、ふわっと浮いた。セバスさん力持ち!
「くふふ」
「あ、すみませんノイシャ様。つい――」
「抱っこ、はじめてされました!」
教会に礼拝にきていた元気な子供が、よく親にこんな感じで抱っこされてました。親がいない私からすれば、とても羨ましかったんです。その夢が叶ったぞ、やっほい! と喜んでいたら、セバスさんが私を下ろしてしまう。……やっぱり重たかったのかな?
「ごめんなさい、調子に乗って――」
慌てて振り返れば、セバスさんが目じりを拭っている。
「いえ、こちらこそすみません。旦那様にはもっと言っておくので」
――何を言っておくの?
だけどそんな疑問符を投げかける間もなく、セバスさんにコレットさんはウリウリと肩を押しつけていた。
「ねぇねぇ、もうノイシャ様を父さんの養女にしない? わたしの妹。最高でしょ?」
「こんな可愛い娘が出来たら死んでもいいが……そうはいかんだろうが」
「でも、あの堅物にノイシャ様を任せるの、すっご~くコレットちゃんはしんぱい~」
「これ、もう余計な者がいなくなったとはいえ、あまり口が過ぎると――」
「でもさ~、さっき聞いてたけど。どーすんのさ、週末のトレイル家の訪問!」
トレイル家は、ラーナ様とバルサ様の家名。
そういえば私、さっきラーナ様に『遊びにきて』と言われたな?
遊びに? 遊びに行くって……なに?
ぼんやり考えていると、セバスさんとコレットさんが揃って私を見つめてくる。
「ノイシャ様……もしかして、さっきラーナ様からご招待受けてたこと、わかってない……?」
「あの……ご招待って、だれかがどこかに来てくださいっていうことですかね?」
「そーですよ! ノイシャ様が、ラーナ様たちの新居に招かれたんですっ!」
「おやあ……」
私が、ラーナ様のお家に行くの?
ラーナ様のご自宅……あんな綺麗な人のお家なんてすごく気になるけど、でもお家に行って
つまり、私は『お仕事モード』で行くことになる?
「あの……それって三分で終わるご用件なのでしょうか?」
「ぜったいに終わらないと思います!」
「じゃあ、残業ですね……」
私は契約書の新しい項目を思い出す。
甲の一日の労働時間は三分厳守。ただし如何なる理由であろうとも、それより超過した場合は乙よりボーナスが支給される。ボーナスは甲の希望によって決定し、乙がその対価に見合う認めるならば、必ず支払うものとする。
それに、私はやっほいと両手を上げた。
「ボーナスだっ!」
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